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2007年5月16日 (水)

日本の経営

ジェームス・C・アベグレン氏が5月2日(2007年)午前3時、東京千代田区にて死去したと報じられた。享年81才、殆ど一般の記憶からは忘れ去られていた人物であるが、日本で生活し、日本女性と結婚し、そして、シカゴ生まれの彼は1997年に日本国籍を取得していたという。いささかの驚きでもあったが、我々年代の者には時代を想起させる名前である。

彼が1958年に著はし、邦訳された「日本の経営」は当時のベストセラーであった。日本の経営についての古典中の古典と言っても過言ではなかろう。“終身雇用制”・“年功序列”・“企業別組合”などの言葉を生み出し、この三つが日本的経営の本質であると喝破している。当時の多くの企業人が一度は手にしたものである。社会人に成りたての私もその一人であった。

これを機に2004年12月に発行された新訳販(山田洋一訳)を50年振りに読み返してみた。

今日、ほぼ無原則に国際化という名の下のアメリカ化が進行している。それだけに、その対極にある理論として読み直してみる価値がある。著者自身新訳版の序文で50年近く前に多くの日本企業の経営幹部に読まれたように、今の世代の経営幹部に是非とも読んで欲しいとメッセージを送っている。

この新訳版の序文が、彼の理論のほぼ総てを語っているので、その概略をそのまま引用してみる。

「序文」

日本は欧米以外の国としてはじめて全面的な工業化を達成し、経済力で欧米諸国と肩を並べるまでになった。

日本の産業が、この様な成功を収めたのは、欧米から導入した技術を日本の価値観に基づいて構築された企業組織に取り入れたからである。欧米の技術と日本的組織という独特の組み合わせを作り上げ、単純な物真似を避けたからこそ、日本は大きな成功を収めることが出来たのだ。

特に、会社と従業員の「終身の関係」が日本の雇用関係の原則であり、日本の強力な経営方式の根幹になっており、50年経った現在も変わらぬ力を持ち続けている。

日本の企業は社会組織、共同体であり、構成員が安全に幸福に暮らせるようにする事を最大の目的としている。この制度の中で、労働組合は労働側と経営側の対決の為の組織でなく、協力の為の組織になっており、報酬と昇進の制度は以前からの年功に基づいており、今でも社会の高令化という状況に適応し乍ら年功の重視をかなりの程度維持している。

50年を経た今日、本書を再び刊行するのは、日本の勤労者と経営者が、日本の経営制度の強みをもたらしてきた基本を見失いかねない危険な状況になっているからである。

日本の制度の基本を疎かにする見方が二つの要因から生じている。第1は、アメリカ企業が力強く成長している様に思える事であり、アメリカが製造業をほぼ放棄して来た事実は無視されている。

第2に、日本は企業と人口構成の成熟に適応する為に苦闘を続けて来たことから景気が低迷する期間が長引いていた。この二つの要因から、日本企業の強さを支えてきた源泉を放棄して、一見、好調なアメリカ方式を真似るべきだとする見方が強まっている。こうした状況があるので、本書は日本企業の経営制度を支えてきた基本原則から離れる事の危険を思い起こす一助にしたい。

欧米では企業を共同体という観点から研究する事には殆ど関心がはらわれていなかった。これは企業を非人間的な経済機械と見なしている証左である。

日本では会社というもののとらえ方自体が英米型の概念とは違っている。英米型の見方では、会社とは資産を組み合わせたものである。会社の構成員である従業員すら「資産」と呼ばれる事が少なくない。

資産と言うからには当然のことだが、価格がついて売買出来るものだ。このため資産の組み合わせである企業も価格が上下に変動すると共に売買されるものであり、短命に終わることが多い。

日本の企業は社会的組織であり、共同体である。従って構成員の為に永く存続することを目標にしている。そして、平等主義的である。日本の大企業では、社長と一般従業員の所得格差は10倍前後だが、アメリカ企業では、これが500倍にも達し、さらに拡大している。

日本企業は「終身の関係」という言葉が示すように、構成員に職の安全を提供しようとしている。日本企業は共同体なので、指導者は内部から選ばれる。取締役に選ばれるのは長年にわたって勤務し、好成績を収めてきた従業員である。取締役は会社でキャリアを築いて来た生え抜きであり、会社と業界を熟知している。日本企業では取締役の地位は部外者に与えるものでなく、会社や業界、更に、競争相手について、殆ど知識をもたない部外者が社長と親しいというだけで取締役になったりはしない。

労働組合については、その組織率は徐々に低下している。就業者に占めるサービス産業就業者の比率が上昇している事がその背景になっている。労働組合は1950年から1970年にかけて経営側と対立する姿勢をとる事が多かったが、今では経営陣にとって有力な味方になっており、労使が協力して競争力の強化と生産性の向上に取り組んでいる。

日本的経営は進化、変化している。しかし、日本的経営の基礎にある価値体系は変わっていない。

これが、特にはっきりしているのは個人主義か集団主義かという点である。欧米の企業、特に英米の企業は個人主義を強く主張している。個人に報いるようにしなければ優れた成果は期待できず、同時に個人を処罰し、処罰の脅しを与える仕組みがなければならないとされている。巨額の報酬を与えられる可能性というアメと、職を失い家族が苦しみ自分の将来が閉ざされる恐れというムチが使われる根拠になっている。

集団主義の場合には動機的にあたって報酬も処罰も小さな意味しかもたず、個人の成果ではなく、集団としての業績が重視される。QCサークルは日本企業では大成功を収めたが、アメリカ企業ではうまくいかなかったのが判り易い例である。

日本企業は基本的には売買できるものでなく、売りに出されるのは経営が極端に苦しくなり、新たなオーナーに従業員の将来を託す場合だけである。敵対的買収はない。企業を資産の組み合わせとして会社を売買する余地は日本にはない。

今、日本の価値観を否定しかねない制度や方法がもてはやされている。例えば、英米型の「企業統治」の方法として、部外者の取締役が会社の意志決定を管理すべきであり、相互の信頼に代えて複雑な法的枠組みを使うべきであり、長期的な機会や必要を犠牲にしてでも株式の価値を経営の目標にすべきと主張されている。

株式は短期的な利益だけを狙って売買されているが、企業統治のこうした考え方は日本企業の強さを損なうだけであり、新たな強みになりえない。

成果主義がもてはやされている。成果主義というのは、何ともあいまいな言葉だ。成果が良いものであるのは自明の理だ。極めて単純な作業ならともかく、通常の仕事は各人の成果を計測するしっかりした方法は誰も考案できていない。日本的経営に代えて成果主義を採用するのは自殺行為だ。

日本の文化を無視した変化や制度全体に与える影響を考慮しない変化や日本経済の成功をもたらした基礎を脅かしかねない変化・・・・こうした変化は拒否すべきである。(序文終わり)

著者アベグレンが調査し、基礎とした1950年代前半の日本の経済社会は企業規模別(大企業と中小企業)格差の存在が最大の問題であった。当時、例えば請負業に於いて本工と比べ臨時工は賃金を含めあらゆる面で差別されていたのであった。

その解消こそが、また政治の一大目標であった。石橋湛山や池田勇人の政策もここに重点が置かれたのである。そして、やがてこれが高度成長・所得倍増政策へと繋がり、ついに現実に完全雇用の果実をもたらしたのである。

政治史的には左右社会党の統一と保守合同によって日本社会党と自由民主党の与野党二大政党が相対峠し、ある時は話し合い乍ら日本の政治が運営された。いわゆる五十五年体制がスタートした時期であった。

労働運動も活発であり、三井三池争議など歴史にのこる争議も、この時期に集中している。また、国際政治は東西両陣営がイデオロギーで対立する構造下にあり、国内的にも労働運動・政治運動(安保闘争)・社会運動(原発反対)なども全てイデオロギーに則っていた。

それらは、様々な手段を駆使し最終的には革命を指向するものであった。その中で、特に先鋭な思想と過激な行動力を持つ革マル派が官公労に影響力を増しつつあり、保守陣営にとっては大きな脅威であった。

保守も力の行使や宥和策や懐柔策と巧みな戦術を行使しながら対応していたのだった。

しかし、何と言ってもアベグレンが喝破した日本の文化とも言うべき企業の「終身雇用」、そして、それを推進するテクニックとしての「年功序列」更に「企業別組合」の特性と、それに呼応するが如く、ときの自民党政権が打ち出した「高度成長・所得倍増」政策がマッチし、またたく間に国民の80%が中流意識を抱く格差の少ない平準化した社会を形成するに成功したのである。

当時、ソ連の世界戦略とその指導下にあった革新勢力はイデオロギーに固執していたが、すでに中産階級化した国民の共感を得るには到らなかった。

日本が世界的革命勢力の膝下にくみする事なく、自由主義社会を堅持する事が出来たのは日米安保条約の存在も大きいが、何と言ってもこのぶ厚い中間層が経済的に安定した生活を営み、その上に立って健全な社会思想を培っていたからであろう。

それはまさに、日本民族自らが永い歴史と伝統の中から創り出した文化の勝利と言えるものであろう。

しかし、杞憂すべきは近年その型が崩壊の怖れを呈している事である。10年に及ぶデフレ不況脱却の為、個々の企業が力を注いだリストラ策、その一環として活用した派遣社員制度や請負制度についてアベグレンは2004年の段階で経営手法の進歩と肯定的に捕らえているが、これらが機能すればする程所期の目的から外れ、大きな格差を生む結果を招いている。

大企業の正社員と中小零細企業の社員との所得格差は三倍にも達し、加えて厳しい経営環境下では中小企業の社会保障は極めて不備である。

更に、大企業、中小企業を問わず、近年経営者の意識も大きな変化を来している様である。

私はアベグレンが見つめた時代とほぼ時を同じくして、社会人としてサラリーマン生活を送った(1962年~)丁度、東京オリンピックを挟み戦後の経済成長を象徴する時期であったが、幸い多くの経営者と接し、その機微に触れる機会が多かった。

どの様ないきさつであったかは定かでないが、当時、経団連の会長をしていた石坂泰三氏を囲む20人程の若手企業人の月例会に参加していた。経済問題のみならず、政治・文学、更に、人生論に到る幅広いテーマを専ら石坂氏が話し、その後意見を交わすなど肩がこらない会合であった。カレーライスを食べ乍ら直接石坂氏の人柄に接するひと時であった。明治人らしい気骨と、中国古典の四書五経やイギリスの詩歌にも及ぶその博識には目を見張らされたが、ある時「君達ももう少し歳をとったら易経を学んでごらん面白いよ」と言われた。その折は、その意味すら理解できなかったが、今思えば中国4000年の歴史の中でうごめいた生身の人間の行動の集積の中から編み出された「易学」の奥深さを語られたのであろうと推測している。氏の人格や行動の基盤がそこに在ったのかと、やっと悟る事が出来た思いである。

敗戦後、満州から引き揚げてきた多くの社員を国内で抱え込み、それが為に経営困難に陥り乍らも一人も解雇せず歯を食いしばって頑張り通し、見事会社を再建させた出光興産店主の出光佐三氏の「家族主義」経営哲学。

陋屋に住み食事と言えば“めざし”の土光敏夫氏、国鉄総裁を勤めた頑固一徹の石田礼三氏、その他、敗戦の瓦礫の中から日本経済の再生に命をかけた経営者群像をみる時、その高い理念と倫理観に裏打ちされた生き生きとした行動とヒューマニズム、そして、その心に宿したサムライ精神こそ、今、まさに我々がもう一度思い起こさねばならない日本文化であろう。

今日、とかくアメリカ流発想や手法がもてはやされている、それはそれで結構である。しかし、一方でアベグレン理論の意味する処を真摯に受け止め大いに参考にすべきではなかろうか。

かって時代の寵児ともてはやされたライブドアの堀江社長や村上ファンドの村上社長は今や刑事被告人として裁かれる身である。その村上社長との関係のなかで小銭をかせいだ日銀総裁、この人を金融のトップに頂かねばならぬとは情けない次第である。

更に、不払いが続々と表面化している保険業界のトップ連中、女性キャスターを如何なる理由か知らぬが会長に招いた電気会社、ある評論家が言う如く、招く方も招く方なら受ける方も受ける方である。もっとも「過労死は自己管理の問題」、「労働基準監督署は不要」と言ってはばからない経済同友会の女性幹事などは論外としか言いようがない。女性の社会進出に大いなる共感を持つ私であるが、失望以外の何者でもない。

これらと戦後のサムライ群像とは比較すべくも無いが、その落差の大きさに暗澹たる気持ちになるのは私一人ではなかろう。

南米では、今や12カ国中8カ国に於いて左派もしくは中道左派の政権下に在る。かって、これらの国の上層部の若い人材がアメリカで学び、アメリカ的教養と感覚を身につけ、帰国後国家のエリートとして各界で指導的役割を果たしてきた。そして、アメリカ主導のもと、経済の自由化、国営企業の民営化など急進的経済改革を断行して来たのだった。一時はそれが成功したかに見えた。しかし、貧困や失業にはっきりした改善はみられず、格差が拡大し、民衆の不満や批判が高まったのである。

その結果、ベネズエラ、ボリビアでは左派がブラジル、アルゼンチンなどでは中道左派が政権を握ることになった。今後それらの左派政権がどれ程民衆の期待に応える事が出来るか注視したい。

我が国とは民族構成、教育、経済構造、資源、歴史とあらゆる面で大きく異なるがアメリカ流、国づくりの実験場となったこれらの国々の轍を踏まぬよう十分に注意しなければならない。いかなる型の国づくりを進めるか、まさに、いまこそ政治がその責任を問われているのである。

2006年6月 6日 (火)

靖国

「両親と面会」『英霊の言葉』より

遙かな旅の疲れの見える髪と眼のくぼみを、私は伏し拝みたい気持ちで見つめた。私の為に苦労をかけた老いが、父母の顔にありありと額の皺にみられるような気がした。何も思う事が云えない。ただ表面をすべっているにすぎないような皮相的な言葉が二言、三言口を出ただけである、剰へ思う事とは全然反対の言葉すら口に出ようとした。ただ時間の歩みのみが気になり、見つめる事、眼でつたわり合う事、眼は口に出し得ない事を云って呉れた。 母は私の手を取って、凍傷をさすって下さった。私は入団以来始めてこの世界に安らかに憩い、生まれたままの心になってそのあたたかさをなつかしんだ。私はこの美しい父母の心温い愛あるが故に君の為に殉ずることが出来る。死すともこの心の世界に眠ることが出来るからだ。僅かに口にした母の心づくしは、私の生涯で最高の美味だった。涙と共にのみ込んだ心のこもった寿司に一片は、母の愛を口移しに伝えてくれた。 「母上、私の為に作って下さったこの愛の結晶をたとえ充分載かなくとも、それ以上の心の糧を得ることが出来ました。父上の沈黙の言葉は、私の心にしっかりと刻みつけられています。これで私は父母と共に戦うことが出来ます。死すとも心の安住の世界を持つことが出来ます。」私は心からそう叫び続けた。 戦の場、それはその美しい感情の試練の場だ。死はこの美しい愛の世界への復帰を意味するが故に私は死を恐れる必要はない。ただ義務の完遂へ邁進するのみだ。 16:00,面会時間は切れた。再び団門をくぐって出て行かれる父母の姿に、私は凝然として挙手の礼を送った。

海軍大尉 安達 卓也

神風特別攻撃隊第1正気隊

昭和20年4月28日

沖縄方面にて戦死

兵庫県出身23才

「愛児への便り」前掲書より

素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。 私の写真帳もお前の為に家に残してあります。素子といふ名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。 私は、お前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合わせになつたのを見届けたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても、決して悲しんではなりません。お前が大きくなつて、父に會ひたい時は九段へいらつしやい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあつても親なし兒などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護って居ります。優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。 お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを讀んで貰ひなさい。

昭和19年○月吉日

植村素子へ

追伸、素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。

海軍大尉 植村 真久

神風特別攻撃隊大和隊

昭和19年10月26日

比島海峡にて戦死

立教大学卒

東京都出身 25才

「父ちゃん 母ちゃん」前掲書より

我一生ここに定まる。 お父さんへ、いふことなし。 お母さんへ、御教訓身にしみます。お母さん、御安心下さい。決して僕は卑怯な死に方をしないです。お母さんの子ですもの。 ―――― それだけで僕は幸福なのです。日本万歳、万歳、かう叫びつつ死んでいつた幾多の先輩達のことを考へます。   お母さん、お母さん、お母さん、お母さん! かう叫びたい気持ちで一杯です。何か言つて下さい。 一言で十分です。いかに冷静になつて考へても、何時も何時も浮んでくるのは御両親様の顔です。父ちゃん! 母ちゃん! 僕は何度もよびます。――(中略)―― 「お母さん、決して泣かないで下さい」 修が日本の飛行軍人であつたことに就て、大きな誇りを持つて下さい。勇ましい爆音を立てて先輩が飛んで行きます。ではまた。

海軍中尉 富田 修

昭和19年9月3日

台湾にて殉職

海軍第13期飛行予備学生

日本大学卒

長野県出身 23才

「妻への便り」前掲書より

久し振りで逢つたが、逢つて見ると嬉しさだけで何の話もないものだな。僕は出発に際して、心残りなく晴れた空の様な気持ちで、戰地に臨む。 軍人の妻として覺悟しなければならないお前だ。くれぐれも身体に気を付けて頑張る様に。俺も存分な働きをして國に報ゆる覚悟だ。 お前は寒さにも暑さにも弱いから、返す返すも身体を丈夫にする様に。 それから生まれる子の事だが、元気な子を生んでくれ。男子ならば勝美と名付ける様に。 最後にお前や皆様の幸福を願ふ。

昭和19年10月4日夜 

函館桟橋にて書す

勝 治

和子どのへ

陸軍曹長 桃 井 勝 治 

昭和20年6月18日

フィリピン群島にて戦死

北海道出身  27才

「父母への便り」前掲書より

十字星を窓から見て泣いた時、世に高いマニラの夕焼けにはるかな故國をしのび、帰りたくなつた時だつてあります。幼い子を見る時、洋司を思ひ、また喜代子、英子と思ひが走ります。 年若くして國を離れる、これは、これからの長い清子の人生に大きな役をしてくれるでせう。 清子は身体の続く限り白衣の人として生きるつもりです。ここは第一線だ、戦場だと働きがひを全身に感じ、すべてを忘れてしまひます。

清子は山野の家を代表した女の勇士です。皆様に心配させるやうなことは致しません。身体の続く限り働きます。靖國の宮で・・・・・・・・。皆様の御健康御多幸を祈ります。

陸軍看護婦 山野 清子

昭和20年7月10日

フィリピンルソン島にて戦病死

三重県出身 19才

避ける事の出来ない死を前にした、この若者達の葛藤、断ち難い肉親への思い、そして使命感は文面を遙かに越えて読む者の胸を打たずにおかない。『路傍のジャングルの中に、傷病兵が数名ずつ寝ころんでいる。蝿のたかっている者は息絶えた者であった。水を欲しがっている者がいた。私は水筒の水を与えながら、元気を出して帰って来いと激励したら、静かに合掌する者もいた。空腹で歩けないと訴える者がいる。手持ちの乾パンを与えたら、口に入れたまま息絶えた者もいた。道路端に点々と屍が並んで、蝿や蛆が群がっている。中には負傷の傷痕に蛆が食い込んで痛いと訴える。私は指でつまんで取ってやったが、肉に食い込んでなかなか取れない。路傍のあちこちに手紙の紙片や、家族の写真が落ちている。留守を預かる両親や妻子のものであろう。いまわのきわに、最後の別れを告げたものでなかろうか。ここはビルマの北辺で、文字通り不毛のジャングル地帯、手向けの花さえもなかったのである。聞くところによれば、カマイン南方の伐開路は、象さえ登りかねる険峻で、ここで力尽き、行き倒れになった死者は膨大な数にのぼり、まさに死屍累々、鬼気せまる惨状であるとのことであった。』

これは戦史上まれにみる無謀で愚劣かつ無責任な作戦と言われるインパール作戦に反対しつゝも方面軍参謀として現地に赴いた、後勝氏の記録「ビルマ戦記」の一節である。遠く離れたビルマ・インド国境のジャングルの中で、虫けらの如く死なざるを得なかった兵士達の最後の思いは、それは、やはり遙かなる祖国の家族の事であった。

ガダルカナル島に於いて、硫黄島に於いて、沖縄に於いて、インパールに於いて、あの太平洋戦争で展開した作戦に愚かなものが多かった。しかし、その中にあってアメリカの圧倒的火器に対し限界を遙かに越えた驚異の抵抗を果たしたのはまさに末端の兵卒一人一人と、それに協力した民間人の働きであった。そして、散っていったその最後の戦いは日本刀を振りかざした白兵戦であった。その勇敢さは哀しいまでに凄まじい。戦跡を訪ねてみても、あの洞穴で、あの海岸線でよくぞあれ程の抵抗が出来たものだと思うと言葉もない。曾て、日露戦争に於いて、大国ロシアに勝利する事が出来たのは当時の技術の翠を集めた火器の開発と合理的な兵站の思想であった。即ち「火力」と「補給」の重視であった。それがいつしか精神主義に傾いていったのだ。兵士は武器を使用する為に存在するのである。しかし、いつしか兵士か武器そのものと化してしまった。“神風”や“回天”がその典型である。一方、各作戦の最終局面に於いて、軍幹部はその大切な武器(兵士)を捨て、いち早く第一線を脱出している。あさましい行為であるが、それが事実である。今日、我々が享受している平和と繁栄は哀しいまでに愚直に国の為に殉じたこの末端の兵士達の尊い命の代償の上に立っているのである。この事を我々は忘れてはならない。そのせめてもの感謝の思いで私は昭和49年から福岡県出身の英霊と戦没者を祀っている福岡県護国神社の春秋大祭に於いて武道大会を催し奉納している。毎回1000人を越す青少年が参加して呉れる。剣道、拳法、銃剣道、合気道、杖道、居合道等である。次代を担う若者達の溌剌たる姿を霊前に披露する事は大いなる慰霊であると信じる次第である。

2006年6月 5日 (月)

「満州国」資料

資料

「日本とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(抄)」(1952)

第一条 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東に於ける国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆または干渉によって引き起こされた日本国に於ける大規模の内乱及び騒優を鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することが出来る。

第二条 第一条に掲げる権利が行使される間は、アメリカ合衆国の事前の同意なくして、基地、基地に於ける若しくは基地に関する権利、権力若しくは機能、駐兵若しくは演習の権利又は陸軍、空軍若しくは海軍の通過の権利を第三国に許与しない。

第三条 アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近に於ける配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する。

「日本国とアメリカ合衆国との安全保障条約第三条に基づく行政協定(抄)」(1952)

第二条 

1 日本国は、合衆国に対し、安全保障条約第一条に掲げる目的の遂行に必要な施設及び区域の使用を許することを同意する。個々の施設及び区域に関する協定は、この協定の効力発生の日までになお両政府が合意に達していないときは、この協定の第二十六条に定める合同委員会を通じて両政府が締結しなければならない。「施設及び区域」には、当該施設及び区域の運営に必要な現在の設備、備品及び定着物を含む。

第三条

1 合衆国は、施設及び区域内に於いて、それらの設定、使用、運営、防衛又は管理のため必要な又は適当な権利、権力及び権能を有する。合衆国は、また、前記の施設及び区域に隣接する土地、領水及び空間又は前記の施設及び区域の近傍において、それらの支持、防衛及び管理のため前記の施設及び区域への出入りの便を図るのに必要な権利、権力及び権能を施設及び区域外で行使するに当たっては、必要に応じ、合同委員会を通じて両政府間で協議しなければならない。

第二十五条

1 日本国に合衆国軍亭を維持することに伴うすべての経費は、2に規定するところにより日本国が負担すべきものを除くほか、この協定の存続期間中日本国に負担をかけないで合衆国が負担することが合意される。

2 日本国は、次のことを行うことが合意される。

(a)      第二条及び第三条に定めるすべての施設、区域及び路線権(飛行場及び港における施設及び区域のように共同に使用される施設及び区域を含む。)をこの協定の存続期間中合衆国に負担を掛けないで提供し、且つ、相当の場合には、施設、区域及び路線権の所有者及び提供者に補償を行うこと。

「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(抄)」(1960)

第六条

1 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持の寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

2 前記の施設及び区域の使用並びの日本国における合衆国軍隊の地位は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定(改正を含む。)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。

「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」(1960)

第二条

1 (a)合衆国は、相互協力及び安全保障条約第六条の規定に基づき、日本国内の施設及び区域の使用を許される。個々の施設及び区域に関する協定は、第二十五条に定める合同委員会を通じて両政府が締結しなければならない。「施設及び区域」には、当該施設及び区域の運営に必要な現存の設備、備品及び定着物を含む。

  (b)合衆国が日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定の終了の時に使用している施設及び区域は、両政府が(a)の規定に従って合意した施設及び区域とみなす。

2 日本国政府及び合衆国政府は、いずれか一方の要請があるときは、前記の取極を再検討しなければならず、また、前記の施設及び区域を日本国に返還すべきこと又は新たに施設及び区域を提供することを合意することが出来る。

第二十四条

1 日本国に合衆国軍隊を維持することに伴うすべての経費は、2に規定するところにより日本国が負担すべきものを除くほか、この協定の存続期間中日本国に負担をかけないで合衆国が負担することが合意される。

2 日本国は、第二条及び第三条に定めるすべての施設及び区域並びに路線権(飛行場及び港における施設及び区域のように共同に使用される施設及び区域を含む。)をこの協定の存続期間中合衆国に負担をかけないで提供し、かつ、相当の場合には、施設及び区域並びに路線権の所有者及び提供者に補償を行うことが合意される。

3 この協定に基づいて生ずる資金上の取引に適用すべき経理のため、日本国政府と合衆国政府との間に取極を行うことが合意される。

2006年6月 2日 (金)

満州国

中国、黒龍江省の省都ハルピンは20世紀初頭、ロシア帝国が建設した満州を横断する東清鉄道と南満州支線(後の南満州鉄道)との連結点として発展した。それだけにロシアの影を色濃く漂わせ「東方のモスクワ」、「東方の小パリ」とも呼ばれたほどのエキゾチックな街であった。

キタイスカヤのヨーロッパ風の洒落た雰囲気、街を行き交うマーチョ(馬車)、ロシア正教の教堂などである。

私は昭和14年この街で生まれ、終戦までの日々を送った。それだけに郷愁を募らせる街である。

気候は一口で言えば長く厳しい冬と、短い夏であろう。11月末から3月いっぱいにかけては気温も時には零下30度近くまで下がり極寒といえる。子供達は鼻水をたらし、それを凍らせ、白い息を吐きながら遊び回っていた。小学校の校庭は水をまくとたちまちスケートリンクと化し高学年の生徒はスケートを、低学年生はソリ滑りを楽しんでいた。

夏はその短かさを惜しむが如く、邦人やロシア人は松花江(スンガリー)の対岸の太陽島の別荘で、束の間の夏を楽しむのが常であった。

昭和53年私は福岡県議会訪中団の一員として訪中した折、ハルピンへも足を伸ばしたが驚いた事には、我が生家、通った小学校、トキワと呼ばれた百貨店、ロシア正教の教堂、スンガリーの風景、楡の並木は殆ど当時のまゝであった。

キタイスカヤは中央街と改名されすっかり中国的雰囲気に変じていたが、私にとってはまさにセンチメンタル・ジャーニーであった。

あの頃、多数見られた白系ロシア人は何処へ行ったのであろうか。

それから更にまた30年、改革、開放路線を経た今日のハルピンは写真で見る限り大きな変貌を遂げ、すっかり近代都市の様相を呈している様である。

その黒龍江省を含む現在の中国東北部に1932年建設されたのが満州国である。

広さは日本の約3倍、人口は当初約3500万であった。日本、特に関東軍の強力な後盾で誕生した。それまで孫文の辛亥革命によって廃帝となり関東軍の庇護の下に天津の日本租界に逼塞していた清朝最後の皇帝溥儀をまず執政に就任させた。日本は国際連盟に独立国家としての承認を求めたが圧倒的多数で否決された。しかし、日本は国連を脱退し、翌年溥儀を皇帝の地位に就かせ帝制を敷いたのである。そして1945年8月18日日本の敗戦と共に溥儀は退位し、満州国は消滅した。

わずか13年5ヶ月、まさにうたかたの如き国家であった。建国迄の経緯、更にその統治等については今日迄も多くの考察がなされている。

五族共和、王道楽土の理想とは裏腹に実体は紛れもなく日本の傀儡国家であり、当時の国際社会でも認知を得る事は出来なかった。

統治組織は執政(後の皇帝)の下に「立法院」「国務院」「監察院」「法院」が並立するシステムを予定していたが、最後まで立法院は置かれず監察院も機能しなかった。

即ち国民の意思が反映される機能を有していなかったのである。

また1932年3月1日満州国宣言に続いて執政溥儀は関東軍司令官との間に下述の如き5項目からなる秘密協定を結んだ。

1、        幣国(満州国を指す)は、今後の国防及び治安維持を貴国(日本を指す)に委託し、その所要経費は総て満州国に於いて之を負担す。

2、        幣国は貴国軍隊が国防上必要とする限り既設の鉄道、港湾、水路、航空路等の管理、並びに進路の敷設は総て之を貴国又は貴国指定の機関に委託すべきことを承認す。

3、        幣国は貴国軍隊が必要と認むる各種の施設に関し極力之を援助す。

4、        貴国人にして達識名望ある者を幣国参議に任じ、その他中央及び地方各署に貴国人を任用すべく、その選任は貴軍司令官の推薦により、その解職は同司令官の同意を要件とす前項の規定により任命せらるる日本人参議の員数及び参議の総員数を変更するにあたり、貴国の建議あるに於いては両国協議のうえ之を増減すべきものとす。

5、        上条項の趣旨及び規定は、将来両国間に正式に締結すべき条約の基礎たるべきものとす。(日本外交年表並び主要文書)

これは取りも直さず治安維持と国防を日本に委ね、国防に必要ならば満州国の施設を日本が自由に使用出来ること、そしてその経費は全て満州国が負担する旨を約束し、さらに参議や政府、地方官庁の日本人官史の任免権を日本軍司令官に一任することである。

溥儀の権限は何ひとつない。全て日本軍(関東軍)任せという事である。

翻って、日本は戦後六十年余り、今や世界に冠たる経済大国の地位を不動のものとしている。この間、一度たりとも他国と戦火を交えることはなかった。

これは1951年、サンフランシスコ講和条約により、日本をいち早く西側自由主義陣営の一員としての位置付けをし、同時に東西冷戦構造の渦中にあって、アメリカとの安全保障条約の締結により、自らの安全保障体制を確立させたことに負うところが大きい。それ丈に、その決断を下した吉田茂総理に対する歴史的な評価は高い。

ここで末尾に、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(1952年)」と「日本国とアメリカ合衆国との安全保障条約第三条に基づく行政協定(1952年)」及び「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(1960年)」と「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定(1960年)」の条文を添付する。

是非、参考にしつゝ読み進めて頂きたい。それが面倒な方の為に大雑把に述べるならば、国防はアメリカに任せ、経済に軸足を置いた国家運営に終始するという事だ。

あの時期、吉田はよくぞこの様な決断をしたものである。根からの反共主義者、自由主義者、吉田の真骨頂と言える。

戦後、わずか6年の年月を経た時期であり、関東軍の強い意向によって建設された傀儡国家、満州国の成立から消滅までの記憶が国民の間にいまだ新しい時期であった。吉田は外交官として、その詳細を熟知していたはずである。

満州国と関東軍との秘密協定と日米安保条約とを比較すれば明らかな如く、両者には大きな類似性がある。即ち、共に自国の防衛を他国に依存し、その為に基地(諸施設)を提供し、その費用を負担するという事である。

勿論、あの当時の満州国と「主権レベル」は大きく異なるが、見方によっては同じポジションに日本を置くという事である。

敗戦直後といえども自前の軍隊を持たず、独立国のなかに他国の軍隊を駐留させ基地を提供し自由な使用を認める事を国民が納得するであろうか。大いなる危惧があったろう。

幣原喜重郎(総理・外相)はこれを“奇案”と称している。国会に於いては共産党すら疑問を投げかけている。

当時、吉田茂と言えども、今日の日本の姿を予測していてとは思えない。しかし、瓦礫と化した国土の復興と貧困からの脱出が最優先であると吉田は信念を貫き通している。

記録に残っているダレス特使との粘り強い事前交渉、国会論戦と、彼のしたたかさが垣間見える。

吉田は講和条約締結の時は全権代表と共に臨んだが安保条約締結に際しては一人で臨み、単独でサインしている。事前に閣僚その他と相談した形跡もない。全責任を一人で負う覚悟があったのであろう。

やがて、占領から解放され、独立を得た国民はこれを静かに受け止めたのであった。これが国民性であろう。以後トータル的にアメリカと真に対等とは云えないが、良好な関係を保ちつゝ今日に至っている。

そして、2001年9月11日、アメリカ国民にとって驚天動地の事件が起きた。イスラム過激派によるニューヨークの貿易センタービルの攻撃である。3千人に迫る犠牲者を出した。

アメリカ国民にとって本土の中枢が攻撃を受けた事は大変なショックであったろう。

これを機にアメリカの軍事的世界戦略が大きな転換を見せている。アメリカ本土に対し、攻撃を仕掛ける恐れがあれば、その芽は小さい内に潰してしまえ。即ち、先制主義の台頭である大量破壊兵器ありとイラクへの攻撃はその一例である。

更に、在沖縄海兵隊8000人、軍属9000人のグアム移転はアメリカの世界戦略転換の一環である。

日本にとって渡りに船、願ってもない事である。今日移転費用について論議されている。その金額と共に、グアムに於ける米軍の為の施設整備費の問題である。国内移転は、現・地位協定に基いて行われる。しかし、グアムはアメリカ領土である。そこに日本の国家予算を支出するとなると、憲法、安保条約に関わる問題となる。

アメリカは国際社会に於ける唯一の超大国である。その世界戦略の変更は直接我が国の基本に関わって来る。

即ち、数千キロの飛距離を持つミサイルが戦略として意味をなす今日、アメリカの戦略も地政学的戦略からむしろ機能性を重視する方向へ移行しつゝある。従って今日のアメリカ第一軍団司令部の神奈川県座間市への移駐などは、場合によっては我が国がその戦略に巻き込まれる可能性を内包している。この様な事も充分認識しなければならない。

その上に立って、我が国はアメリカとの同盟を堅持しつゝ、独立国家として新しい関係の構築を考えねばならない。これは吉田茂が後世の我々に残した宿題である。

2006年5月26日 (金)

武士道のこと

「・・・・・一木一草焦土ト化セン、糧食六月一杯を支フルノミナリト謂フ、沖縄県民を斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ・・・」

これは言うまでもなく、太平洋戦争唯一の地上戦となった沖縄戦に於いて、時の沖縄方面根拠地隊司令官・太田実中将(死後)が、昭和20年6月6日夜、大本営海軍次官宛てに打電した最後の電文の結びである。接する度に胸が熱くなる。

「沖縄県民ノ実情ニ関シテハ、県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既にニ通信力ナク・・・」に始まるこの電文はその時点での戦の実情、特に民間の老若男女の協力の様と筆舌し難い苦戦をつぶさに述べると共に、軍はそれをかえりみる余裕がなかった事を詫びている。その後、彼は6月13日海軍壕内で自決したのだった。沖縄の悲劇を語る時「ひめゆり部隊」や「鉄血勤王隊」の行動と共に常に引用される一文である。

あの極限状況に在って避ける事が出来ない死を前にして太田実中将はよくぞ責任感と人間性を失わず、県民に対し愛情と思いやり、そして謝罪の心を保ち得たものだ。通常であれば自分が生き延びる事で精一杯であろう。今日、平和のなかで生活している我々には想像を絶するものがある。常に死と隣接する戦場にあっては心理的にも極限の状況である、生に固執する人間の本性丸出しの醜い面をさらけ出すものではないだろうか。

沖縄戦のみならず、今次大戦の多くの戦場での数々の醜い事例が語られている。その中にあって、太田実中将の姿はまさに武士道の極みと言えるものであろう。その魂は今日も胸を打つ。

太田実中将1891年(明治24年)千葉県生まれ、1913年(大正2年)海軍兵学校卒。海軍に於ける陸戦研究の第一人者「おれは公務に全力を尽くす、お前は子供の養育に責任を持て」(妻が病気で寝込んでも)「軍人が一度家を出たらお国のものだ。お前が死んでも、公務についている間は絶対に帰らん」と妻にいう典型的な「武人」だった。

そして60年後、その魂をしっかりと受け止め、沖縄県民の苦難に報いべく、2000年のサミット会場を沖縄に決定した小渕総理もまた、同じ魂をもった見事なサムライ振りであり、我々に感動を与えてくれた。戦で命を落とした沖縄県民に対し、これ以上の鎮魂譜はない。

小渕総理は学生時代に沖縄を訪れ、その悲劇に触れ太田中将のこの電文に接し、心に何かを刻んだと言われている。やがて日本国の総理として太田の魂に報いたのである。

まさに二つの武士の魂が時空を越えて結ばれたと言える。

今は亡き、小渕総理のあの村夫子然とした風貌を想起しつゝ、太田実中将、犠牲になった沖縄県民と英霊に対し、心より哀悼の意を表し、ご冥福を祈りたい。合掌

前章で柔道選手、卓球選手、力士、政治家のとっさの時の対応について私見を述べてみた。

スポーツの分野でも日常生活でも、とっさの時の反応は誠に難しい。私など、そのとっさの局面に際し、大慌てに慌て失敗し、後で「ああすれば良かった、こうすれば良かった」と反省ばかりである。後知恵である。「今度この局面に遭遇したら今度は失敗しないぞ」と構えても、次のとっさの局面は、全く別の状況になっており、また失敗する、その連続である。

しかし、だからこそ、とっさの局面で少しでも慌てたり失敗しない様に日々練習稽古に励むものである。私など臆病者の典型であるから人一倍稽古をした様な気がする。

一方、太田実中将の事を書き乍ら、極限の状況など決してあってもらいたくないと、つくづく思う。しかし、その様な局面にいつ遭遇するか判らない。常に心の鍛錬を要するのであろう。

最近、武士道というものが論ぜられる事が多い様である。私も良く判らない。ただ“とっさ”も “極限”も常に心身の鍛練を怠らなければ少しは対応出来るのであろうか。

礼について

戦後、日本の驚異の復興を象徴的に世界に発信した、東京オリンピック。その成功ほど国民に自信を甦らせたものはなかろう。

その時の柔道種目、無差別級決勝はオランダの巨人、アントン・ヘーシングと日本の切り札・神永昭夫の対戦であった。結果は、ヘーシングの力の前に神永は袈裟固めで破れた。当時ヘーシングの強さは柔道界では既に脅威であったが、日本の“お家芸”柔道がまさか破れる事などなかろうというのが一般的であった。それ丈に日本人にとっては大きな衝撃であった。

一方、オランダ人はその勝利に喜びを爆発させた。ヘーシングの袈裟固め一本のベルが鳴るや、未だ神永は仰向けに畳の上に横たわり、上になっていたヘーシングは審判の“一本”の宣告を受けて力を緩め立ち上がろうとしていた時であったが、狂喜したオランダの応援団の一人が試合場に飛び上がり、ヘーシングに抱きつこうとした。その時である、ヘーシングは厳しい表情でその男を大きな手で制し、試合場から降りるよう命じた。

ヘーシングにとっては日本柔道を破った劇的な瞬間であった。その勝利感はひとしおであったはずである。しかし、そのとっさの折に、彼は数秒前まで死力を尽くし戦い、そして打破った相手神永の心情を思んばったのである。そして両者は元の位置に戻り、終わりの礼を交わし、互いの健闘を称え、静かに試合場を降りた。勝ったヘーシングも勝利をことさらに誇示する事もなく、破れた神永も卑屈な様子をみせる事なく淡々とした態度であった。

と書くと何でも無い事である。しかし、あのとっさの瞬間にヘーシングは自分の喜びの感情を抑え、また神永も平常心を保った姿は立派であった。

言う迄もなく、武道の試合は礼にはじまって礼に終わる。これが武道の作法である。それは互いに相手を敬う心にある。日本で培かわれた武士道が柔道という格闘技を通じて遠くオランダのヘーシングに伝わっていたのである。

いつの卓球大会であったか、“愛ちゃん”の愛称で人気が高い福原愛選手が激戦のすえ、勝利を納めた試合があった。その直後にインタビューを受けていた。女性アナウンサーが勝利の感想などを聞いていた時。ふっと口を噤みアナウンサーの問いかけに応えなくなった。ほんの数秒程度であった。怪訝に思ったアナウンサーが、「どうしたの」と尋ねると福原選手は「今、自分の背後をたった今戦った相手の選手が通った、勝った自分の勝利のインタビューの声を聞くのは辛い思いをするだろうから、暫く黙りました」と応えていた。

その時は福原選手はまだ中学生であったと思う。しかし、3・4才の頃から厳しい練習を重ね、何百回の試合経験を通じ、勝つ喜びと同時に、負けた時の悲哀を心の中で理解する様になったのであろう。そして、そのとっさの折に相手の立場、自分は勝つ事が出来たが、相手の選手の無念さは理解出来る。その相手の立場に対する思いやりを、その経験の中から学んだのである。

「思わず“ヤツタ”と手をたたきましたよ」、これは小坂文部科学大臣の発言である。トリノ五輪に於いて、我が荒川静香選手が、見事金メダルを獲得し、その報告を兼ね大臣室を表敬訪問した折に飛び出したものである。

多くの国民がテレビで観戦して記憶に新しいと思うが、女子フィギュア自由種目の荒川選手の演技はしなやかで、表現力にあふれ、素晴らしい出来栄えであり、門外漢の私からみても感動的であった。その次の演技者は金メダルの最有力候補のロシアのイリーナ・スルツカヤ選手であった。それ迄も世界選手権大会をはじめ多くの大舞台で優勝を経験している名選手である。しかし、直前に荒川選手にあれ程の完璧な演技を見せつけられると、そのプレッシャーは大変なものであったろう。果たせるかな緊張感から、その動きも表情も硬かった。そして何でもない局面で転倒したのであった。世界中が息を呑んだ瞬間である、この瞬間に荒川選手の金メダルが確定したと言っても過言ではない。

他人の失敗が自分に有利に作用するフィギュア競技など演技を争う競技は非情なものである。荒川選手へ声援を送っていた国民の心の底にも相手の失敗を期待する気持ちはなかったと言えば嘘になろう。大臣の発言も是を代弁したとも言える。正直といえば正直である。

しかし、選手の心情を思えば、その発言は如何なものかと思う。さすがに大臣もその後、直ちに「不適切な発言であった」と訂正した。礼を失した発言と思ったのであろう。立派である。

イリーナ・スルツカヤ選手はすぐ立ち直り、みじんも動揺を表に出す事なく見事に演技を終えた。観客も万雷の拍手で応えた。これまた見事である。

平成13年大相撲夏場所は相撲フアンにとって忘れ得ない場所であろう。ホームページで拾ってみた。

千秋楽、東横綱の貴乃花が優勝決定戦で西横綱の武蔵丸を上手投げで降し、二場所ぶり22回目の優勝を飾った。貴乃花は前日の大関の武双山戦で右膝を亜脱臼したが、出場を強行、本割りでは武蔵丸に突き落としで敗れ、13勝2敗で並んだものの決定戦を気迫あふれる取り口で制した。

前日の武双山との取組で敗れた貴乃花は自力で歩けない程に右膝を痛めてしまっていた。診断結果は全治2ヶ月の亜脱臼。親方は休場を勧めたが「出場して膝が駄目になってもいい」とフアンの為、そして横綱の誇りの為、決死の出場を決意した貴乃花だった。武蔵丸を破った瞬間の表情はまさに鬼の顔だった。しかし、終わりの礼を交わした時は、両者とも淡々として土俵を下りた。互いの健闘を称え礼にかなった作法であつた。観衆もテレビの前のフアンも感動した。

そして表彰式、小泉総理は貴乃花に内閣総理大臣杯を授与した。

首相は表彰状を読みあげた後「痛みに耐えてよく頑張った。おめでとう」と貴乃花を絶賛した。国民もその率直さに拍手を送った。

大相撲の土俵は神殿である。従って力士は礼を以て始め、塩をまき柏手を打つ。そして死力を尽くして戦い、戦い終われば淡々と礼を以て終わる。勝っても負けても互いに“淡々さ”を以て健闘を称え、尊重し、敬意を表するのである。力士以外でも神殿に上がる者はその礼を守るべきものだ。これが日本の伝統である。

今日、その礼儀作法に乱れが生じていると思うのは私ばかりではなかろう。この一番も手負いの貴乃花と戦わねばならなかった武蔵丸の心情はまさに泣きたい気持ちであり、その闘争心は複雑なものがあったろう。その武蔵丸の心中を思いやれば総理もまた異なった対処の方法もあったはずである。

勝者を讃えるのは誰しも出来る。しかし、このとっさの折に敗者を思いやる心がそれ以上に必要ではなかろうか。ささいな事と言われゝばそれ迄であるが、それが武士道が求める礼の心であろう。

日頃より浅学非才で非礼な行動が多い私であるが、自戒を込め、色々な文献(ホームページ他)をひもとき乍ら“礼”について弱冠述べてみる。

“礼”という言葉は今日では礼儀作法を指す事が一般的であるが、古代中国では人間が持つ徳目のひとつとして極めて重用視している。その意味するところは日常生活に於ける礼儀作法といった枝葉末節のことも含まれるが、より広く人間の社会的な行動が定着し、型を作って様式化し、それが「しきたり」、「習俗」として守られるもの全般を指す。広く人の世の秩序を保たせるもの全てを礼と総称したのである。最も広い意味では、社会の伝承のすべて、文化全体を指す事もある。

中華と夷狄の区別が礼の有無によって決定されるのもこの為と言われている。

論語によると孔子は、儀礼を行うにあたって、形式や外見よりも心がこもっている事が大切だと述べている。

礼が正しく行われるには、何よりもまず心中に愛情とか敬意とかがあって、それが形となって表現されるのだと考えていたようである。

只、孔子は決して表現される形を疎かにしてもよいと考えていたわけではない。

礼は心の中の思いが適切に形になって表現されるものであり、心の伴わない外形だけの虚礼には意味がないと言っているのである。