靖国
「両親と面会」『英霊の言葉』より
遙かな旅の疲れの見える髪と眼のくぼみを、私は伏し拝みたい気持ちで見つめた。私の為に苦労をかけた老いが、父母の顔にありありと額の皺にみられるような気がした。何も思う事が云えない。ただ表面をすべっているにすぎないような皮相的な言葉が二言、三言口を出ただけである、剰へ思う事とは全然反対の言葉すら口に出ようとした。ただ時間の歩みのみが気になり、見つめる事、眼でつたわり合う事、眼は口に出し得ない事を云って呉れた。 母は私の手を取って、凍傷をさすって下さった。私は入団以来始めてこの世界に安らかに憩い、生まれたままの心になってそのあたたかさをなつかしんだ。私はこの美しい父母の心温い愛あるが故に君の為に殉ずることが出来る。死すともこの心の世界に眠ることが出来るからだ。僅かに口にした母の心づくしは、私の生涯で最高の美味だった。涙と共にのみ込んだ心のこもった寿司に一片は、母の愛を口移しに伝えてくれた。 「母上、私の為に作って下さったこの愛の結晶をたとえ充分載かなくとも、それ以上の心の糧を得ることが出来ました。父上の沈黙の言葉は、私の心にしっかりと刻みつけられています。これで私は父母と共に戦うことが出来ます。死すとも心の安住の世界を持つことが出来ます。」私は心からそう叫び続けた。 戦の場、それはその美しい感情の試練の場だ。死はこの美しい愛の世界への復帰を意味するが故に私は死を恐れる必要はない。ただ義務の完遂へ邁進するのみだ。 16:00,面会時間は切れた。再び団門をくぐって出て行かれる父母の姿に、私は凝然として挙手の礼を送った。
海軍大尉 安達 卓也
神風特別攻撃隊第1正気隊
昭和20年4月28日
沖縄方面にて戦死
兵庫県出身23才
「愛児への便り」前掲書より
素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。 私の写真帳もお前の為に家に残してあります。素子といふ名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。 私は、お前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合わせになつたのを見届けたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても、決して悲しんではなりません。お前が大きくなつて、父に會ひたい時は九段へいらつしやい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあつても親なし兒などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護って居ります。優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。 お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを讀んで貰ひなさい。
昭和19年○月吉日
植村素子へ
追伸、素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。
海軍大尉 植村 真久
神風特別攻撃隊大和隊
昭和19年10月26日
比島海峡にて戦死
立教大学卒
東京都出身 25才
「父ちゃん! 母ちゃん!」前掲書より
我一生ここに定まる。 お父さんへ、いふことなし。 お母さんへ、御教訓身にしみます。お母さん、御安心下さい。決して僕は卑怯な死に方をしないです。お母さんの子ですもの。 ―――― それだけで僕は幸福なのです。日本万歳、万歳、かう叫びつつ死んでいつた幾多の先輩達のことを考へます。 お母さん、お母さん、お母さん、お母さん! かう叫びたい気持ちで一杯です。何か言つて下さい。 一言で十分です。いかに冷静になつて考へても、何時も何時も浮んでくるのは御両親様の顔です。父ちゃん! 母ちゃん! 僕は何度もよびます。――(中略)―― 「お母さん、決して泣かないで下さい」 修が日本の飛行軍人であつたことに就て、大きな誇りを持つて下さい。勇ましい爆音を立てて先輩が飛んで行きます。ではまた。
海軍中尉 富田 修
昭和19年9月3日
台湾にて殉職
海軍第13期飛行予備学生
日本大学卒
長野県出身 23才
「妻への便り」前掲書より
久し振りで逢つたが、逢つて見ると嬉しさだけで何の話もないものだな。僕は出発に際して、心残りなく晴れた空の様な気持ちで、戰地に臨む。 軍人の妻として覺悟しなければならないお前だ。くれぐれも身体に気を付けて頑張る様に。俺も存分な働きをして國に報ゆる覚悟だ。 お前は寒さにも暑さにも弱いから、返す返すも身体を丈夫にする様に。 それから生まれる子の事だが、元気な子を生んでくれ。男子ならば勝美と名付ける様に。 最後にお前や皆様の幸福を願ふ。
昭和19年10月4日夜
函館桟橋にて書す
勝 治
和子どのへ
陸軍曹長 桃 井 勝 治
昭和20年6月18日
フィリピン群島にて戦死
北海道出身 27才
「父母への便り」前掲書より
十字星を窓から見て泣いた時、世に高いマニラの夕焼けにはるかな故國をしのび、帰りたくなつた時だつてあります。幼い子を見る時、洋司を思ひ、また喜代子、英子と思ひが走ります。 年若くして國を離れる、これは、これからの長い清子の人生に大きな役をしてくれるでせう。 清子は身体の続く限り白衣の人として生きるつもりです。ここは第一線だ、戦場だと働きがひを全身に感じ、すべてを忘れてしまひます。
清子は山野の家を代表した女の勇士です。皆様に心配させるやうなことは致しません。身体の続く限り働きます。靖國の宮で・・・・・・・・。皆様の御健康御多幸を祈ります。
陸軍看護婦 山野 清子
昭和20年7月10日
フィリピンルソン島にて戦病死
三重県出身 19才
避ける事の出来ない死を前にした、この若者達の葛藤、断ち難い肉親への思い、そして使命感は文面を遙かに越えて読む者の胸を打たずにおかない。『路傍のジャングルの中に、傷病兵が数名ずつ寝ころんでいる。蝿のたかっている者は息絶えた者であった。水を欲しがっている者がいた。私は水筒の水を与えながら、元気を出して帰って来いと激励したら、静かに合掌する者もいた。空腹で歩けないと訴える者がいる。手持ちの乾パンを与えたら、口に入れたまま息絶えた者もいた。道路端に点々と屍が並んで、蝿や蛆が群がっている。中には負傷の傷痕に蛆が食い込んで痛いと訴える。私は指でつまんで取ってやったが、肉に食い込んでなかなか取れない。路傍のあちこちに手紙の紙片や、家族の写真が落ちている。留守を預かる両親や妻子のものであろう。いまわのきわに、最後の別れを告げたものでなかろうか。ここはビルマの北辺で、文字通り不毛のジャングル地帯、手向けの花さえもなかったのである。聞くところによれば、カマイン南方の伐開路は、象さえ登りかねる険峻で、ここで力尽き、行き倒れになった死者は膨大な数にのぼり、まさに死屍累々、鬼気せまる惨状であるとのことであった。』
これは戦史上まれにみる無謀で愚劣かつ無責任な作戦と言われるインパール作戦に反対しつゝも方面軍参謀として現地に赴いた、後勝氏の記録「ビルマ戦記」の一節である。遠く離れたビルマ・インド国境のジャングルの中で、虫けらの如く死なざるを得なかった兵士達の最後の思いは、それは、やはり遙かなる祖国の家族の事であった。
ガダルカナル島に於いて、硫黄島に於いて、沖縄に於いて、インパールに於いて、あの太平洋戦争で展開した作戦に愚かなものが多かった。しかし、その中にあってアメリカの圧倒的火器に対し限界を遙かに越えた驚異の抵抗を果たしたのはまさに末端の兵卒一人一人と、それに協力した民間人の働きであった。そして、散っていったその最後の戦いは日本刀を振りかざした白兵戦であった。その勇敢さは哀しいまでに凄まじい。戦跡を訪ねてみても、あの洞穴で、あの海岸線でよくぞあれ程の抵抗が出来たものだと思うと言葉もない。曾て、日露戦争に於いて、大国ロシアに勝利する事が出来たのは当時の技術の翠を集めた火器の開発と合理的な兵站の思想であった。即ち「火力」と「補給」の重視であった。それがいつしか精神主義に傾いていったのだ。兵士は武器を使用する為に存在するのである。しかし、いつしか兵士か武器そのものと化してしまった。“神風”や“回天”がその典型である。一方、各作戦の最終局面に於いて、軍幹部はその大切な武器(兵士)を捨て、いち早く第一線を脱出している。あさましい行為であるが、それが事実である。今日、我々が享受している平和と繁栄は哀しいまでに愚直に国の為に殉じたこの末端の兵士達の尊い命の代償の上に立っているのである。この事を我々は忘れてはならない。そのせめてもの感謝の思いで私は昭和49年から福岡県出身の英霊と戦没者を祀っている福岡県護国神社の春秋大祭に於いて武道大会を催し奉納している。毎回1000人を越す青少年が参加して呉れる。剣道、拳法、銃剣道、合気道、杖道、居合道等である。次代を担う若者達の溌剌たる姿を霊前に披露する事は大いなる慰霊であると信じる次第である。
最近のコメント