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2006年6月 2日 (金)

満州国

中国、黒龍江省の省都ハルピンは20世紀初頭、ロシア帝国が建設した満州を横断する東清鉄道と南満州支線(後の南満州鉄道)との連結点として発展した。それだけにロシアの影を色濃く漂わせ「東方のモスクワ」、「東方の小パリ」とも呼ばれたほどのエキゾチックな街であった。

キタイスカヤのヨーロッパ風の洒落た雰囲気、街を行き交うマーチョ(馬車)、ロシア正教の教堂などである。

私は昭和14年この街で生まれ、終戦までの日々を送った。それだけに郷愁を募らせる街である。

気候は一口で言えば長く厳しい冬と、短い夏であろう。11月末から3月いっぱいにかけては気温も時には零下30度近くまで下がり極寒といえる。子供達は鼻水をたらし、それを凍らせ、白い息を吐きながら遊び回っていた。小学校の校庭は水をまくとたちまちスケートリンクと化し高学年の生徒はスケートを、低学年生はソリ滑りを楽しんでいた。

夏はその短かさを惜しむが如く、邦人やロシア人は松花江(スンガリー)の対岸の太陽島の別荘で、束の間の夏を楽しむのが常であった。

昭和53年私は福岡県議会訪中団の一員として訪中した折、ハルピンへも足を伸ばしたが驚いた事には、我が生家、通った小学校、トキワと呼ばれた百貨店、ロシア正教の教堂、スンガリーの風景、楡の並木は殆ど当時のまゝであった。

キタイスカヤは中央街と改名されすっかり中国的雰囲気に変じていたが、私にとってはまさにセンチメンタル・ジャーニーであった。

あの頃、多数見られた白系ロシア人は何処へ行ったのであろうか。

それから更にまた30年、改革、開放路線を経た今日のハルピンは写真で見る限り大きな変貌を遂げ、すっかり近代都市の様相を呈している様である。

その黒龍江省を含む現在の中国東北部に1932年建設されたのが満州国である。

広さは日本の約3倍、人口は当初約3500万であった。日本、特に関東軍の強力な後盾で誕生した。それまで孫文の辛亥革命によって廃帝となり関東軍の庇護の下に天津の日本租界に逼塞していた清朝最後の皇帝溥儀をまず執政に就任させた。日本は国際連盟に独立国家としての承認を求めたが圧倒的多数で否決された。しかし、日本は国連を脱退し、翌年溥儀を皇帝の地位に就かせ帝制を敷いたのである。そして1945年8月18日日本の敗戦と共に溥儀は退位し、満州国は消滅した。

わずか13年5ヶ月、まさにうたかたの如き国家であった。建国迄の経緯、更にその統治等については今日迄も多くの考察がなされている。

五族共和、王道楽土の理想とは裏腹に実体は紛れもなく日本の傀儡国家であり、当時の国際社会でも認知を得る事は出来なかった。

統治組織は執政(後の皇帝)の下に「立法院」「国務院」「監察院」「法院」が並立するシステムを予定していたが、最後まで立法院は置かれず監察院も機能しなかった。

即ち国民の意思が反映される機能を有していなかったのである。

また1932年3月1日満州国宣言に続いて執政溥儀は関東軍司令官との間に下述の如き5項目からなる秘密協定を結んだ。

1、        幣国(満州国を指す)は、今後の国防及び治安維持を貴国(日本を指す)に委託し、その所要経費は総て満州国に於いて之を負担す。

2、        幣国は貴国軍隊が国防上必要とする限り既設の鉄道、港湾、水路、航空路等の管理、並びに進路の敷設は総て之を貴国又は貴国指定の機関に委託すべきことを承認す。

3、        幣国は貴国軍隊が必要と認むる各種の施設に関し極力之を援助す。

4、        貴国人にして達識名望ある者を幣国参議に任じ、その他中央及び地方各署に貴国人を任用すべく、その選任は貴軍司令官の推薦により、その解職は同司令官の同意を要件とす前項の規定により任命せらるる日本人参議の員数及び参議の総員数を変更するにあたり、貴国の建議あるに於いては両国協議のうえ之を増減すべきものとす。

5、        上条項の趣旨及び規定は、将来両国間に正式に締結すべき条約の基礎たるべきものとす。(日本外交年表並び主要文書)

これは取りも直さず治安維持と国防を日本に委ね、国防に必要ならば満州国の施設を日本が自由に使用出来ること、そしてその経費は全て満州国が負担する旨を約束し、さらに参議や政府、地方官庁の日本人官史の任免権を日本軍司令官に一任することである。

溥儀の権限は何ひとつない。全て日本軍(関東軍)任せという事である。

翻って、日本は戦後六十年余り、今や世界に冠たる経済大国の地位を不動のものとしている。この間、一度たりとも他国と戦火を交えることはなかった。

これは1951年、サンフランシスコ講和条約により、日本をいち早く西側自由主義陣営の一員としての位置付けをし、同時に東西冷戦構造の渦中にあって、アメリカとの安全保障条約の締結により、自らの安全保障体制を確立させたことに負うところが大きい。それ丈に、その決断を下した吉田茂総理に対する歴史的な評価は高い。

ここで末尾に、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(1952年)」と「日本国とアメリカ合衆国との安全保障条約第三条に基づく行政協定(1952年)」及び「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(1960年)」と「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定(1960年)」の条文を添付する。

是非、参考にしつゝ読み進めて頂きたい。それが面倒な方の為に大雑把に述べるならば、国防はアメリカに任せ、経済に軸足を置いた国家運営に終始するという事だ。

あの時期、吉田はよくぞこの様な決断をしたものである。根からの反共主義者、自由主義者、吉田の真骨頂と言える。

戦後、わずか6年の年月を経た時期であり、関東軍の強い意向によって建設された傀儡国家、満州国の成立から消滅までの記憶が国民の間にいまだ新しい時期であった。吉田は外交官として、その詳細を熟知していたはずである。

満州国と関東軍との秘密協定と日米安保条約とを比較すれば明らかな如く、両者には大きな類似性がある。即ち、共に自国の防衛を他国に依存し、その為に基地(諸施設)を提供し、その費用を負担するという事である。

勿論、あの当時の満州国と「主権レベル」は大きく異なるが、見方によっては同じポジションに日本を置くという事である。

敗戦直後といえども自前の軍隊を持たず、独立国のなかに他国の軍隊を駐留させ基地を提供し自由な使用を認める事を国民が納得するであろうか。大いなる危惧があったろう。

幣原喜重郎(総理・外相)はこれを“奇案”と称している。国会に於いては共産党すら疑問を投げかけている。

当時、吉田茂と言えども、今日の日本の姿を予測していてとは思えない。しかし、瓦礫と化した国土の復興と貧困からの脱出が最優先であると吉田は信念を貫き通している。

記録に残っているダレス特使との粘り強い事前交渉、国会論戦と、彼のしたたかさが垣間見える。

吉田は講和条約締結の時は全権代表と共に臨んだが安保条約締結に際しては一人で臨み、単独でサインしている。事前に閣僚その他と相談した形跡もない。全責任を一人で負う覚悟があったのであろう。

やがて、占領から解放され、独立を得た国民はこれを静かに受け止めたのであった。これが国民性であろう。以後トータル的にアメリカと真に対等とは云えないが、良好な関係を保ちつゝ今日に至っている。

そして、2001年9月11日、アメリカ国民にとって驚天動地の事件が起きた。イスラム過激派によるニューヨークの貿易センタービルの攻撃である。3千人に迫る犠牲者を出した。

アメリカ国民にとって本土の中枢が攻撃を受けた事は大変なショックであったろう。

これを機にアメリカの軍事的世界戦略が大きな転換を見せている。アメリカ本土に対し、攻撃を仕掛ける恐れがあれば、その芽は小さい内に潰してしまえ。即ち、先制主義の台頭である大量破壊兵器ありとイラクへの攻撃はその一例である。

更に、在沖縄海兵隊8000人、軍属9000人のグアム移転はアメリカの世界戦略転換の一環である。

日本にとって渡りに船、願ってもない事である。今日移転費用について論議されている。その金額と共に、グアムに於ける米軍の為の施設整備費の問題である。国内移転は、現・地位協定に基いて行われる。しかし、グアムはアメリカ領土である。そこに日本の国家予算を支出するとなると、憲法、安保条約に関わる問題となる。

アメリカは国際社会に於ける唯一の超大国である。その世界戦略の変更は直接我が国の基本に関わって来る。

即ち、数千キロの飛距離を持つミサイルが戦略として意味をなす今日、アメリカの戦略も地政学的戦略からむしろ機能性を重視する方向へ移行しつゝある。従って今日のアメリカ第一軍団司令部の神奈川県座間市への移駐などは、場合によっては我が国がその戦略に巻き込まれる可能性を内包している。この様な事も充分認識しなければならない。

その上に立って、我が国はアメリカとの同盟を堅持しつゝ、独立国家として新しい関係の構築を考えねばならない。これは吉田茂が後世の我々に残した宿題である。

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