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2006年6月 6日 (火)

靖国

「両親と面会」『英霊の言葉』より

遙かな旅の疲れの見える髪と眼のくぼみを、私は伏し拝みたい気持ちで見つめた。私の為に苦労をかけた老いが、父母の顔にありありと額の皺にみられるような気がした。何も思う事が云えない。ただ表面をすべっているにすぎないような皮相的な言葉が二言、三言口を出ただけである、剰へ思う事とは全然反対の言葉すら口に出ようとした。ただ時間の歩みのみが気になり、見つめる事、眼でつたわり合う事、眼は口に出し得ない事を云って呉れた。 母は私の手を取って、凍傷をさすって下さった。私は入団以来始めてこの世界に安らかに憩い、生まれたままの心になってそのあたたかさをなつかしんだ。私はこの美しい父母の心温い愛あるが故に君の為に殉ずることが出来る。死すともこの心の世界に眠ることが出来るからだ。僅かに口にした母の心づくしは、私の生涯で最高の美味だった。涙と共にのみ込んだ心のこもった寿司に一片は、母の愛を口移しに伝えてくれた。 「母上、私の為に作って下さったこの愛の結晶をたとえ充分載かなくとも、それ以上の心の糧を得ることが出来ました。父上の沈黙の言葉は、私の心にしっかりと刻みつけられています。これで私は父母と共に戦うことが出来ます。死すとも心の安住の世界を持つことが出来ます。」私は心からそう叫び続けた。 戦の場、それはその美しい感情の試練の場だ。死はこの美しい愛の世界への復帰を意味するが故に私は死を恐れる必要はない。ただ義務の完遂へ邁進するのみだ。 16:00,面会時間は切れた。再び団門をくぐって出て行かれる父母の姿に、私は凝然として挙手の礼を送った。

海軍大尉 安達 卓也

神風特別攻撃隊第1正気隊

昭和20年4月28日

沖縄方面にて戦死

兵庫県出身23才

「愛児への便り」前掲書より

素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。 私の写真帳もお前の為に家に残してあります。素子といふ名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。 私は、お前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合わせになつたのを見届けたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても、決して悲しんではなりません。お前が大きくなつて、父に會ひたい時は九段へいらつしやい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあつても親なし兒などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護って居ります。優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。 お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを讀んで貰ひなさい。

昭和19年○月吉日

植村素子へ

追伸、素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。

海軍大尉 植村 真久

神風特別攻撃隊大和隊

昭和19年10月26日

比島海峡にて戦死

立教大学卒

東京都出身 25才

「父ちゃん 母ちゃん」前掲書より

我一生ここに定まる。 お父さんへ、いふことなし。 お母さんへ、御教訓身にしみます。お母さん、御安心下さい。決して僕は卑怯な死に方をしないです。お母さんの子ですもの。 ―――― それだけで僕は幸福なのです。日本万歳、万歳、かう叫びつつ死んでいつた幾多の先輩達のことを考へます。   お母さん、お母さん、お母さん、お母さん! かう叫びたい気持ちで一杯です。何か言つて下さい。 一言で十分です。いかに冷静になつて考へても、何時も何時も浮んでくるのは御両親様の顔です。父ちゃん! 母ちゃん! 僕は何度もよびます。――(中略)―― 「お母さん、決して泣かないで下さい」 修が日本の飛行軍人であつたことに就て、大きな誇りを持つて下さい。勇ましい爆音を立てて先輩が飛んで行きます。ではまた。

海軍中尉 富田 修

昭和19年9月3日

台湾にて殉職

海軍第13期飛行予備学生

日本大学卒

長野県出身 23才

「妻への便り」前掲書より

久し振りで逢つたが、逢つて見ると嬉しさだけで何の話もないものだな。僕は出発に際して、心残りなく晴れた空の様な気持ちで、戰地に臨む。 軍人の妻として覺悟しなければならないお前だ。くれぐれも身体に気を付けて頑張る様に。俺も存分な働きをして國に報ゆる覚悟だ。 お前は寒さにも暑さにも弱いから、返す返すも身体を丈夫にする様に。 それから生まれる子の事だが、元気な子を生んでくれ。男子ならば勝美と名付ける様に。 最後にお前や皆様の幸福を願ふ。

昭和19年10月4日夜 

函館桟橋にて書す

勝 治

和子どのへ

陸軍曹長 桃 井 勝 治 

昭和20年6月18日

フィリピン群島にて戦死

北海道出身  27才

「父母への便り」前掲書より

十字星を窓から見て泣いた時、世に高いマニラの夕焼けにはるかな故國をしのび、帰りたくなつた時だつてあります。幼い子を見る時、洋司を思ひ、また喜代子、英子と思ひが走ります。 年若くして國を離れる、これは、これからの長い清子の人生に大きな役をしてくれるでせう。 清子は身体の続く限り白衣の人として生きるつもりです。ここは第一線だ、戦場だと働きがひを全身に感じ、すべてを忘れてしまひます。

清子は山野の家を代表した女の勇士です。皆様に心配させるやうなことは致しません。身体の続く限り働きます。靖國の宮で・・・・・・・・。皆様の御健康御多幸を祈ります。

陸軍看護婦 山野 清子

昭和20年7月10日

フィリピンルソン島にて戦病死

三重県出身 19才

避ける事の出来ない死を前にした、この若者達の葛藤、断ち難い肉親への思い、そして使命感は文面を遙かに越えて読む者の胸を打たずにおかない。『路傍のジャングルの中に、傷病兵が数名ずつ寝ころんでいる。蝿のたかっている者は息絶えた者であった。水を欲しがっている者がいた。私は水筒の水を与えながら、元気を出して帰って来いと激励したら、静かに合掌する者もいた。空腹で歩けないと訴える者がいる。手持ちの乾パンを与えたら、口に入れたまま息絶えた者もいた。道路端に点々と屍が並んで、蝿や蛆が群がっている。中には負傷の傷痕に蛆が食い込んで痛いと訴える。私は指でつまんで取ってやったが、肉に食い込んでなかなか取れない。路傍のあちこちに手紙の紙片や、家族の写真が落ちている。留守を預かる両親や妻子のものであろう。いまわのきわに、最後の別れを告げたものでなかろうか。ここはビルマの北辺で、文字通り不毛のジャングル地帯、手向けの花さえもなかったのである。聞くところによれば、カマイン南方の伐開路は、象さえ登りかねる険峻で、ここで力尽き、行き倒れになった死者は膨大な数にのぼり、まさに死屍累々、鬼気せまる惨状であるとのことであった。』

これは戦史上まれにみる無謀で愚劣かつ無責任な作戦と言われるインパール作戦に反対しつゝも方面軍参謀として現地に赴いた、後勝氏の記録「ビルマ戦記」の一節である。遠く離れたビルマ・インド国境のジャングルの中で、虫けらの如く死なざるを得なかった兵士達の最後の思いは、それは、やはり遙かなる祖国の家族の事であった。

ガダルカナル島に於いて、硫黄島に於いて、沖縄に於いて、インパールに於いて、あの太平洋戦争で展開した作戦に愚かなものが多かった。しかし、その中にあってアメリカの圧倒的火器に対し限界を遙かに越えた驚異の抵抗を果たしたのはまさに末端の兵卒一人一人と、それに協力した民間人の働きであった。そして、散っていったその最後の戦いは日本刀を振りかざした白兵戦であった。その勇敢さは哀しいまでに凄まじい。戦跡を訪ねてみても、あの洞穴で、あの海岸線でよくぞあれ程の抵抗が出来たものだと思うと言葉もない。曾て、日露戦争に於いて、大国ロシアに勝利する事が出来たのは当時の技術の翠を集めた火器の開発と合理的な兵站の思想であった。即ち「火力」と「補給」の重視であった。それがいつしか精神主義に傾いていったのだ。兵士は武器を使用する為に存在するのである。しかし、いつしか兵士か武器そのものと化してしまった。“神風”や“回天”がその典型である。一方、各作戦の最終局面に於いて、軍幹部はその大切な武器(兵士)を捨て、いち早く第一線を脱出している。あさましい行為であるが、それが事実である。今日、我々が享受している平和と繁栄は哀しいまでに愚直に国の為に殉じたこの末端の兵士達の尊い命の代償の上に立っているのである。この事を我々は忘れてはならない。そのせめてもの感謝の思いで私は昭和49年から福岡県出身の英霊と戦没者を祀っている福岡県護国神社の春秋大祭に於いて武道大会を催し奉納している。毎回1000人を越す青少年が参加して呉れる。剣道、拳法、銃剣道、合気道、杖道、居合道等である。次代を担う若者達の溌剌たる姿を霊前に披露する事は大いなる慰霊であると信じる次第である。

2006年6月 5日 (月)

「満州国」資料

資料

「日本とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(抄)」(1952)

第一条 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東に於ける国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆または干渉によって引き起こされた日本国に於ける大規模の内乱及び騒優を鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することが出来る。

第二条 第一条に掲げる権利が行使される間は、アメリカ合衆国の事前の同意なくして、基地、基地に於ける若しくは基地に関する権利、権力若しくは機能、駐兵若しくは演習の権利又は陸軍、空軍若しくは海軍の通過の権利を第三国に許与しない。

第三条 アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近に於ける配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する。

「日本国とアメリカ合衆国との安全保障条約第三条に基づく行政協定(抄)」(1952)

第二条 

1 日本国は、合衆国に対し、安全保障条約第一条に掲げる目的の遂行に必要な施設及び区域の使用を許することを同意する。個々の施設及び区域に関する協定は、この協定の効力発生の日までになお両政府が合意に達していないときは、この協定の第二十六条に定める合同委員会を通じて両政府が締結しなければならない。「施設及び区域」には、当該施設及び区域の運営に必要な現在の設備、備品及び定着物を含む。

第三条

1 合衆国は、施設及び区域内に於いて、それらの設定、使用、運営、防衛又は管理のため必要な又は適当な権利、権力及び権能を有する。合衆国は、また、前記の施設及び区域に隣接する土地、領水及び空間又は前記の施設及び区域の近傍において、それらの支持、防衛及び管理のため前記の施設及び区域への出入りの便を図るのに必要な権利、権力及び権能を施設及び区域外で行使するに当たっては、必要に応じ、合同委員会を通じて両政府間で協議しなければならない。

第二十五条

1 日本国に合衆国軍亭を維持することに伴うすべての経費は、2に規定するところにより日本国が負担すべきものを除くほか、この協定の存続期間中日本国に負担をかけないで合衆国が負担することが合意される。

2 日本国は、次のことを行うことが合意される。

(a)      第二条及び第三条に定めるすべての施設、区域及び路線権(飛行場及び港における施設及び区域のように共同に使用される施設及び区域を含む。)をこの協定の存続期間中合衆国に負担を掛けないで提供し、且つ、相当の場合には、施設、区域及び路線権の所有者及び提供者に補償を行うこと。

「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(抄)」(1960)

第六条

1 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持の寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

2 前記の施設及び区域の使用並びの日本国における合衆国軍隊の地位は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定(改正を含む。)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。

「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」(1960)

第二条

1 (a)合衆国は、相互協力及び安全保障条約第六条の規定に基づき、日本国内の施設及び区域の使用を許される。個々の施設及び区域に関する協定は、第二十五条に定める合同委員会を通じて両政府が締結しなければならない。「施設及び区域」には、当該施設及び区域の運営に必要な現存の設備、備品及び定着物を含む。

  (b)合衆国が日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定の終了の時に使用している施設及び区域は、両政府が(a)の規定に従って合意した施設及び区域とみなす。

2 日本国政府及び合衆国政府は、いずれか一方の要請があるときは、前記の取極を再検討しなければならず、また、前記の施設及び区域を日本国に返還すべきこと又は新たに施設及び区域を提供することを合意することが出来る。

第二十四条

1 日本国に合衆国軍隊を維持することに伴うすべての経費は、2に規定するところにより日本国が負担すべきものを除くほか、この協定の存続期間中日本国に負担をかけないで合衆国が負担することが合意される。

2 日本国は、第二条及び第三条に定めるすべての施設及び区域並びに路線権(飛行場及び港における施設及び区域のように共同に使用される施設及び区域を含む。)をこの協定の存続期間中合衆国に負担をかけないで提供し、かつ、相当の場合には、施設及び区域並びに路線権の所有者及び提供者に補償を行うことが合意される。

3 この協定に基づいて生ずる資金上の取引に適用すべき経理のため、日本国政府と合衆国政府との間に取極を行うことが合意される。

2006年6月 2日 (金)

満州国

中国、黒龍江省の省都ハルピンは20世紀初頭、ロシア帝国が建設した満州を横断する東清鉄道と南満州支線(後の南満州鉄道)との連結点として発展した。それだけにロシアの影を色濃く漂わせ「東方のモスクワ」、「東方の小パリ」とも呼ばれたほどのエキゾチックな街であった。

キタイスカヤのヨーロッパ風の洒落た雰囲気、街を行き交うマーチョ(馬車)、ロシア正教の教堂などである。

私は昭和14年この街で生まれ、終戦までの日々を送った。それだけに郷愁を募らせる街である。

気候は一口で言えば長く厳しい冬と、短い夏であろう。11月末から3月いっぱいにかけては気温も時には零下30度近くまで下がり極寒といえる。子供達は鼻水をたらし、それを凍らせ、白い息を吐きながら遊び回っていた。小学校の校庭は水をまくとたちまちスケートリンクと化し高学年の生徒はスケートを、低学年生はソリ滑りを楽しんでいた。

夏はその短かさを惜しむが如く、邦人やロシア人は松花江(スンガリー)の対岸の太陽島の別荘で、束の間の夏を楽しむのが常であった。

昭和53年私は福岡県議会訪中団の一員として訪中した折、ハルピンへも足を伸ばしたが驚いた事には、我が生家、通った小学校、トキワと呼ばれた百貨店、ロシア正教の教堂、スンガリーの風景、楡の並木は殆ど当時のまゝであった。

キタイスカヤは中央街と改名されすっかり中国的雰囲気に変じていたが、私にとってはまさにセンチメンタル・ジャーニーであった。

あの頃、多数見られた白系ロシア人は何処へ行ったのであろうか。

それから更にまた30年、改革、開放路線を経た今日のハルピンは写真で見る限り大きな変貌を遂げ、すっかり近代都市の様相を呈している様である。

その黒龍江省を含む現在の中国東北部に1932年建設されたのが満州国である。

広さは日本の約3倍、人口は当初約3500万であった。日本、特に関東軍の強力な後盾で誕生した。それまで孫文の辛亥革命によって廃帝となり関東軍の庇護の下に天津の日本租界に逼塞していた清朝最後の皇帝溥儀をまず執政に就任させた。日本は国際連盟に独立国家としての承認を求めたが圧倒的多数で否決された。しかし、日本は国連を脱退し、翌年溥儀を皇帝の地位に就かせ帝制を敷いたのである。そして1945年8月18日日本の敗戦と共に溥儀は退位し、満州国は消滅した。

わずか13年5ヶ月、まさにうたかたの如き国家であった。建国迄の経緯、更にその統治等については今日迄も多くの考察がなされている。

五族共和、王道楽土の理想とは裏腹に実体は紛れもなく日本の傀儡国家であり、当時の国際社会でも認知を得る事は出来なかった。

統治組織は執政(後の皇帝)の下に「立法院」「国務院」「監察院」「法院」が並立するシステムを予定していたが、最後まで立法院は置かれず監察院も機能しなかった。

即ち国民の意思が反映される機能を有していなかったのである。

また1932年3月1日満州国宣言に続いて執政溥儀は関東軍司令官との間に下述の如き5項目からなる秘密協定を結んだ。

1、        幣国(満州国を指す)は、今後の国防及び治安維持を貴国(日本を指す)に委託し、その所要経費は総て満州国に於いて之を負担す。

2、        幣国は貴国軍隊が国防上必要とする限り既設の鉄道、港湾、水路、航空路等の管理、並びに進路の敷設は総て之を貴国又は貴国指定の機関に委託すべきことを承認す。

3、        幣国は貴国軍隊が必要と認むる各種の施設に関し極力之を援助す。

4、        貴国人にして達識名望ある者を幣国参議に任じ、その他中央及び地方各署に貴国人を任用すべく、その選任は貴軍司令官の推薦により、その解職は同司令官の同意を要件とす前項の規定により任命せらるる日本人参議の員数及び参議の総員数を変更するにあたり、貴国の建議あるに於いては両国協議のうえ之を増減すべきものとす。

5、        上条項の趣旨及び規定は、将来両国間に正式に締結すべき条約の基礎たるべきものとす。(日本外交年表並び主要文書)

これは取りも直さず治安維持と国防を日本に委ね、国防に必要ならば満州国の施設を日本が自由に使用出来ること、そしてその経費は全て満州国が負担する旨を約束し、さらに参議や政府、地方官庁の日本人官史の任免権を日本軍司令官に一任することである。

溥儀の権限は何ひとつない。全て日本軍(関東軍)任せという事である。

翻って、日本は戦後六十年余り、今や世界に冠たる経済大国の地位を不動のものとしている。この間、一度たりとも他国と戦火を交えることはなかった。

これは1951年、サンフランシスコ講和条約により、日本をいち早く西側自由主義陣営の一員としての位置付けをし、同時に東西冷戦構造の渦中にあって、アメリカとの安全保障条約の締結により、自らの安全保障体制を確立させたことに負うところが大きい。それ丈に、その決断を下した吉田茂総理に対する歴史的な評価は高い。

ここで末尾に、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(1952年)」と「日本国とアメリカ合衆国との安全保障条約第三条に基づく行政協定(1952年)」及び「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(1960年)」と「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定(1960年)」の条文を添付する。

是非、参考にしつゝ読み進めて頂きたい。それが面倒な方の為に大雑把に述べるならば、国防はアメリカに任せ、経済に軸足を置いた国家運営に終始するという事だ。

あの時期、吉田はよくぞこの様な決断をしたものである。根からの反共主義者、自由主義者、吉田の真骨頂と言える。

戦後、わずか6年の年月を経た時期であり、関東軍の強い意向によって建設された傀儡国家、満州国の成立から消滅までの記憶が国民の間にいまだ新しい時期であった。吉田は外交官として、その詳細を熟知していたはずである。

満州国と関東軍との秘密協定と日米安保条約とを比較すれば明らかな如く、両者には大きな類似性がある。即ち、共に自国の防衛を他国に依存し、その為に基地(諸施設)を提供し、その費用を負担するという事である。

勿論、あの当時の満州国と「主権レベル」は大きく異なるが、見方によっては同じポジションに日本を置くという事である。

敗戦直後といえども自前の軍隊を持たず、独立国のなかに他国の軍隊を駐留させ基地を提供し自由な使用を認める事を国民が納得するであろうか。大いなる危惧があったろう。

幣原喜重郎(総理・外相)はこれを“奇案”と称している。国会に於いては共産党すら疑問を投げかけている。

当時、吉田茂と言えども、今日の日本の姿を予測していてとは思えない。しかし、瓦礫と化した国土の復興と貧困からの脱出が最優先であると吉田は信念を貫き通している。

記録に残っているダレス特使との粘り強い事前交渉、国会論戦と、彼のしたたかさが垣間見える。

吉田は講和条約締結の時は全権代表と共に臨んだが安保条約締結に際しては一人で臨み、単独でサインしている。事前に閣僚その他と相談した形跡もない。全責任を一人で負う覚悟があったのであろう。

やがて、占領から解放され、独立を得た国民はこれを静かに受け止めたのであった。これが国民性であろう。以後トータル的にアメリカと真に対等とは云えないが、良好な関係を保ちつゝ今日に至っている。

そして、2001年9月11日、アメリカ国民にとって驚天動地の事件が起きた。イスラム過激派によるニューヨークの貿易センタービルの攻撃である。3千人に迫る犠牲者を出した。

アメリカ国民にとって本土の中枢が攻撃を受けた事は大変なショックであったろう。

これを機にアメリカの軍事的世界戦略が大きな転換を見せている。アメリカ本土に対し、攻撃を仕掛ける恐れがあれば、その芽は小さい内に潰してしまえ。即ち、先制主義の台頭である大量破壊兵器ありとイラクへの攻撃はその一例である。

更に、在沖縄海兵隊8000人、軍属9000人のグアム移転はアメリカの世界戦略転換の一環である。

日本にとって渡りに船、願ってもない事である。今日移転費用について論議されている。その金額と共に、グアムに於ける米軍の為の施設整備費の問題である。国内移転は、現・地位協定に基いて行われる。しかし、グアムはアメリカ領土である。そこに日本の国家予算を支出するとなると、憲法、安保条約に関わる問題となる。

アメリカは国際社会に於ける唯一の超大国である。その世界戦略の変更は直接我が国の基本に関わって来る。

即ち、数千キロの飛距離を持つミサイルが戦略として意味をなす今日、アメリカの戦略も地政学的戦略からむしろ機能性を重視する方向へ移行しつゝある。従って今日のアメリカ第一軍団司令部の神奈川県座間市への移駐などは、場合によっては我が国がその戦略に巻き込まれる可能性を内包している。この様な事も充分認識しなければならない。

その上に立って、我が国はアメリカとの同盟を堅持しつゝ、独立国家として新しい関係の構築を考えねばならない。これは吉田茂が後世の我々に残した宿題である。

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