中野正剛・廣田弘毅そして緒方竹虎
太平洋戦争を狭む約20年間は激動の昭和史の中にあってひときわ国民にとって苦難の時期であった。
その渦中にあって大きな役割を演じた廣田弘毅、中野正剛、緒方竹虎は共に福岡の中学修猷館の出身である。その生き様は、お世辞にも処世術に長けていたとは言えず、またその死にざまは息が詰まる様な悲劇性を帯びている。しかし、その一生を貫いた精神性の高さは現代の我々を圧倒してやまない。
この3人は既に歴史上の人物として、後の史家や、識者が縷々述べているが、ここでは私が偶然にももった接点を切り口に述べてみる。
まず、中野については、私の父が中野の門下生であった事から、私自身が父やその仲間の人達を通じて間接的ではあるが中野の人となりに触れる事が出来た。その内容については“中野正剛余録”の章で既に述べた通りである。
廣田については、進藤一馬・福岡市長(当時)の音頭で、その精神を後世に残そうではないかと、昭和57年銅像を建立した。その際、実行委員会事務局の一員として実務に当たったのが接点である。
愈々、像が完成し除幕式と祝賀会の当日多くの人々が参列した。
私も司会役を務めさせて頂いた。
遺族を代表して長男・弘雄氏が出席された。参列者の多くは廣田について多くの逸話なり、その精神などについての話が聞けるであろうと期待していた。
しかし、弘雄氏は壇上で先ず唇に人指し指を一本立て、「本日はこれを以て御挨拶としたい」と深々と頭を下げられた。他に何らの言葉もなくそれが全てであった。一瞬会場はシーンと静まり返り、そして静かに拍手が湧き起こった。私には今もその時の事が強烈な印象として残っている。まさに黙して語らずであった。
東京軍事裁判に於いて自分の父親は一言の弁明も、一言の意見の陳述もせず、文民唯一のA級戦犯として従容として断頭台に昇った。その息子として今更何をか言わん。まさに廣田弘毅の強烈な意志を子息を通じて感じさせられた思いであった。
廣田は自身の思いについて殆どを語っていない。従って、今日ではもはや廣田の思いは推測するしかない。
廣田弘毅(1878年生)現在の福岡市中央区天神にて石屋の息子として生まれる。中学修猷館、第一高等学校、東京帝国大学、外務省入省、外務官僚として活躍、その間、斉藤及び、岡田内閣で外務大臣、昭和11年3月大命降下、総理大臣として軍部の干渉を受け乍らも組閣、しかし軍部大臣現役制を排除する事が出来ず、軍事拡張予算を成立させるなど、軍部の意見を広範に受け入れる事になり、更に11月に日独防共協定締結とズルズルと我が国は戦時体制へと押し流されていったのである。一時期、国政の枢要な立場に立った廣田としては深い悔恨の念に苛まれた事であろう。
東京裁判を待つ迄もなく、既にこの時点で廣田は天皇と国民に対し、自らを断罪していたのである。もう何も言う事はない。彼にとっては東京裁判などどうでもよい。廣田の心は既に人間が営む俗世を離れ天空に遊んでいたのであろう。それは座右の銘としていた「浩々たる丹心万古に輝く」の心境であったのである。
緒方竹虎と中野正剛の盟友関係はつとに有名である。中学時代に出会い終生の友であった。まさに刎頸の友である。
中野の葬儀では葬儀委員長も務め、福岡市にある中野の碑の「中野正剛先生の碑」の文字は緒方の筆によるものである。
緒方竹虎(1888年、山形県に生まれ)、4才の時父について福岡に移る。中学修猷館、早稲田大学、大学時代は中野と下宿を同じくしている。その後、朝日新聞社に入社、言論人としての道を歩む。しかし、昭和19年、東條内閣に変わり成立した小磯国昭内閣に於いて国務大臣兼情報局総裁として入閣し重慶政府との和平工作に打ち込んでいる。しかし失敗、小磯内閣は総辞職した。そして敗戦を迎えている。
戦後は戦争終結の感慨に耽る間もなく、東久邇宮内閣の国務大臣兼内閣書記官長兼情報局総裁に就任、わずか1ヶ月半であったが、敗戦処理の大役を担った。そして、その年の暮GHQから戦犯容疑者に指名されている。
緒方については「立党50年」の章でも触れているが、昭和30年5月、母校修猷館高校の創立記念に卒業者として来校し、後輩の我々に訓辞を行っている。私はその風格に接し大きな感銘を受けた次第である。その年の11月に保守合同、自由民主党設立の大業を成し遂げ、つぎは緒方内閣必至と言われていたが翌昭和31年1月急逝した。
緒方は戦後、自ら語っている「新体制運動に対し、日支事変に対し、三国同盟に対し、大東亜戦争に対し、朝日新聞にもし幾分かの弁疏が残されているとすれば、それは一番遅れて賛成したと言う以外の何物でもない」と、今日の言論人に是非とも心に受け止めてもらいたい言葉である。
この3人にひとつの共通点がある。それは筑前・玄洋社との係わりである。廣田弘毅夫人は玄洋社々員・月成功太郎の娘である。また廣田は社員であると共に、玄洋社々長・頭山満との交流は特に深かったのはよく知られている。
中野正剛は大正2年三宅雪嶺の娘・多美子と結婚しているが、頭山満が古島一雄と共に媒酌の労をとっている。
また緒方竹虎については、彼の急逝後の福岡一区の衆議院議席は最後の玄洋社々長の進藤一馬(後に福岡市長)が受けついでいる。
玄洋社については、いずれ詳しく述べたいが、大アジア主義を標榜し、孫文の革命運動に共鳴すると共にインドのラス・ビハリ・ボース、フイリッピンのアギナルド将軍等の独立運動を陰に陽に支援している。廣田は揮毫を頼まれると好んで「靖亜」という言葉を書している。意味するところは“アジアを靖んず”即ちアジアの平和と安定の重要さを訴えるものである。
更に、3人の思いとは大きく異なり我が国は戦争に突入、そして敗戦、戦後の混乱と国民は未曾有の苦難を強いられたが力及ばずしてここに至らしめた事に対し、そろって深い反省と悔恨の情を愚直なまでに心中に蔵している。
この時期に指導的立場にあった人の多くが悔恨の情を以て、その後の人生を送っている。しかし、一方で何の反省も躊躇もなく、利を求めて要領よく180度人生を変えた人も多い。人それぞれである。
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