天下一人を以て興る
“天下一人を以て興る”
何と気概に満ちた言葉であろうか。このところ不思議とこの言葉が“胸”を去来する。
筑前福岡が生んだ憂国の政治家・中野正剛は昭和17年(1942年)11月10日、彼の母校である早稲田大学大隈講堂に於いて4時間強にわたり、「天下一人を以て興る」という演題で時の宰相東條英機を弾劾する大演説を行っている。
その様子を当時早稲田の学生として聴衆の一人であった中野の四男・泰雄氏(東京都福生市在住)はその著書「政治家中野正剛」で詳しく述べている。
それは古今東西の歴史や人物に中野自身の歴史観をもって照射し乍ら、国家の危機を説き、国民に覚醒を促す誠に感動あふれるものであったと。その間満場の聴衆は誰一人として席を立つ者はいなかった、そして演説する中野の精神の昂揚と聴衆の心が一体となった時そこには嵐の如き拍手が湧き起こり鳴り止まなかった。そして最後の締めくくりは校歌「都の西北」の大合唱であったと。
今日、その演説内容を読み返してみても、その迫力そして情熱とあふれる至誠が何とも言えぬ臨場感をもって迫って来る、まさに魂の叫びである。
その日、中野は説いている。そして訴えている。「諸君は由緒あり、歴史ある早稲田大学の学生である。便乗はよしなさい。歴史の動向と取り組みなさい。諸君はみな一人を以て興ろうではないか,便乗主義は危険である。自己に目醒めよ。“天下一人を以て興る、興らざるは努力せざるにある”」と。更に続けている「天下ことごとく眠っているなら、諸君、起きようではないか。誰かが真剣に起ち上がれば、天下はその人に率いられる。諸君みな起てば、諸君は日本の正気を分担するものである。日本の巨船は怒涛の中に漂っている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目醒めよ。天下一人を以て興れ」。
時は太平洋戦争の真只中。前年(1941年)12月8日、真珠湾攻撃によって火ぶたが切られたこの大戦は、緒戦の圧倒的優勢も束の間、この年(1942年)6月のミッドウエー海戦に於いて我が連合艦隊は空母4隻を失い更に多数の駆逐艦が沈没或いは損傷するという大打撃を受けた。これをさかいに続くソロモン海戦、ガダルカナル島攻防そして撤退と早くも形勢は逆転し劣勢に立たされていた。
中野の目には既に戦局の行く末、国家の行く末が見えていたのであろう。このままではいけない何とかこの時点で和平にもっていかねばならぬと痛感した彼は、党人派の政治家・三木武吉や鳩山一郎等と語り合って重臣工作に奔走し、早期講和内閣樹立の道を模索していたのだった。しかし国民の間には戦争末期の様な厭戦ムードの広がりは未だなかった。それとこの時期は、かゝる戦況の悪化については国民には全く知らされておらず、国民は只管に為政者を信じ、マスコミもその役割を放棄して無批判に政府の方針に追随していたのだった。むしろ率先して国民を戦争継続へと煽りたてゝいたのである。
前年の昭和16年10月大命降下を受け、首相の座に着いた東條は陸相、参謀総長も兼務し、さらに翼賛体制を強化、経済や言論の統制等、愈々独裁色を強め、戦争遂行の為の諸施策を連続して打ち出していた。
この流れを変える事が急務である。それには国民一人一人が覚醒し、現状を認識し、一人一人が立ちあがらねばならない。中野はその願いを込めて、先ずは母校の後輩にその先鞭を託すべく、この演説を行ったのである。
明けて翌昭和18年(1943年)中野は元旦の朝日新聞朝刊に「戦時宰相論」と題する論文を掲載している。これが神経質な東條の逆鱗に触れた。東條内閣批判、倒閣運動と解訳したのである。
ここに到ると東條にとって中野は許すべからざる天敵であり、中野にとって東條は国民を悲惨な運命に導く天敵となったのである。ここに二人は互いに歩み寄る事の出来ない関係となったのであった。
そして、ついに東條は強行策に出た。“戦時刑事特別法”(施行・昭和17年(1942年)3月21日)の適用である。これは戦時下の特例法として刑法に定められた罪の一定部分について、その刑を加重するとともに、「国政を変乱することを目的とした殺人、その予備、陰謀、教唆、煽動等の行為、生活必需品の買い占め、売り惜しみ行為等を、死刑等の厳罰に処する」ものである。
この法律を適用し、東條は中野をはじめ彼が主宰していた政治グループ“東方会”の有力議員(非翼賛)及び幹部百数十名を警視庁に検挙させた。中野の逮捕理由はある若者に「日本は負ける」と話したという噂があるという事であった。
その年の10月26日からはじまる帝国議会に何が何でも中野を登院させてはならないとの思いである。
この経緯については保阪正康著「東條英機と天皇の時代(下)」を引用する。いさゝか長いが是非目を通して頂きたい。
(引用)
『いまや東條には、中野は目障りだった。このまま野放しにすれば議会で何を言いだすかわからないと恐れた。26日からの第83帝国議会の開会前にその動きを封じたいと考えていた。しかし警視庁から届く報告は、中野の容疑はひとつとして固められないというのである。議会召集日の前日の25日夜、東條は首相官邸に安藤紀三郎内相、岩村通世司法相、松阪広政検事総長、薄田美朝警視総監、四方諒二東京憲兵隊長を集め、中野正剛の処置を打ち合わせた。このとき、東條は戦時に準じて法解釈すべきだと、松阪と薄田に詰めよった。
「警視庁からの報告の程度では身柄を拘束して議会への出席を止めることはできない」と松阪は拒み、薄田も同調した。そこで東條は四方に意見を求めると、四方は即座に「私のほうでやりましょう」と応じた。それは議会に出席させないための罪状をつくりあげようという意味であった。そして26日早朝、中野の身柄は憲兵隊に移され、四方は腹心の大西和夫に「2時間以内に自白させろ」と命じた。午前中に拘留手続きをとらなければ、中野の登院阻止ができないからだった。
大西と中野がどのような会話をしたのかは明らかでない。だがある憲兵隊関係者は、中野の子息を召集し最激戦地に送り込むと、大西が脅迫したという。妻、長男、次男の3人をこの3年の間に亡くしていた中野は驚き、それで憲兵隊の意に沿うような証言をしたとしている。中野と親しかった人物が、昭和52年に岐阜に住んでいる大西をさがしだし、脅迫的に証言を迫ったが、彼は震えるだけで決して詳細をもらさなかったという。
この日の夜、自宅に戻った中野は、隣室で大西ともう一人の憲兵に監視されていたが、秘かに自決した。
この報は開会中の議会にも伝わった。原因は不明とされたが、あの豪気な中野が自決するには東條の圧力があったからだと噂した。噂はふくれあがり、東條が中野に向かって「不忠者」とどなりつけたとか、日本刀を渡して暗に自決を勧めたとか、ひそひそ話となって流れた。「東條という男は何をするかわからん」という恐れを露骨に口にだす者もあった。』(引用おわり)
家族を人質にとり、その節を曲げせしむる。東條の手法が明らかである。いつの時代も、いづれの国に於いても陰湿で非情な権力者の摂る手段は変わらぬものである。
明治国家発足以降、戦前のこの時期まで幾つもの内閣が誕生しているが、東條内閣ほど強権的で独裁色の強い内閣は他に類をみない。
ひとつに東条内閣の下で執り行われた昭和17年4月の第21回総選挙は俗に「翼賛選挙」と云われるものである。政府機関である「翼賛協会」は衆議院の定数いっぱいの466名に推薦状を渡し、推薦料として各人に5千円以上の金を渡している。総額500万円(今日の金額にして約500億円)以上の政治資金を投入したのであった。それらは全て「臨時軍事費」から支出された。
結果は、推薦候補381名が当選した。これは衆議院総議席数の80%を占めるものである。即ち、形の上では圧倒的多数の国民が東條を信任したという事である。非推薦候補の当選は85名に止まっている。ちなみにその中には東京一区の鳩山一郎、香川一区の三木武吉、そして福岡一区の中野正剛等の名前がみえる。しかし、これで議会は完全に政府の「御用機関」になり下ったのである。
折角、大正期にデモクラシーの発芽がみられたが、ここに来て日本の民主主義は完全に死滅したと云っても過言ではなかろう。
わずかに非推薦で当選した議員が議会で抵抗を試みていたが、鳩山一郎は軽井沢に三木武吉は郷里に“他日を期す”と引きこもり一人中野のみが孤独な戦いを続けていたのである。
三木は戦後保守合同に心血を注ぎ今日の自由民主党の基礎を築く一翼を担い、鳩山はやがて総理として日ソ国交回復の大業を見事に成し遂げている。中野は東條に対する抗議と国民の覚醒を促しつゝ自ら命を絶った。それぞれ政治家としての生き様は異なるも信念に基づいた行動であり見事である。
昨年の第44回総選挙に際し、郵政民営化法案に反対した故をもって自民党公認を得られず“非公認”で戦った諸氏は組織面・資金面・広報面と、あらゆる面に於いて公認候補とは比較にならない不利な条件の下で、非常に苛烈で苦しい選挙戦を強いられた。なかには権力が放った刺客と死闘を強いられた人もいる。それを乗り越え見事当選を果たした人、涙を呑んだ人、悲喜こもごもであったが、信念に従った行動であり悔いはなかろうと思う。その後の行動は鳩山・三木・中野の如く夫々異なるが、同じ政治の場に在る者として、今日立場は異にしているが心から敬意を表したい。
それらの行為に対し権力に従わなかった、大勢に従わなかったと非難する人々、さき見えがしなかったと軽蔑する人々も多く存する事も承知している。権力に従う、大勢に従う、という生き方も政治家にとってひとつの必要な処世術であるかもしれない。その方が安易で楽であるから。しかし自分の意見をもち、権力の誤ちを指摘し、あえて筋を通す政治家が居なくなればこの世は闇である。
今日、政治はマスコミの恣意に翻弄されている感がある。本来主役であるべき国民が知らぬ間に劇場政治の観客席に座らされ、ただ面白おかしいだけの、おし着せの芝居を観せられている。それがあたかも政治参加、民主主義と錯覚している様だ。更に頻繁に顔をみせる学者・文化人と云われる輩が、もっともらしくコメントを述べているが、それが往々にしてマスコミによって増幅され世論の体裁をなして、ひとつの流れを作る・そして政治がそれに迎合する。政治もまたそれを利用する知恵を絞っている。この繰り返しである。これで真の民主政治が育成されるだろうか疑問に思う。だからこそ国民一人一人が真に自由で独立した精神をもって政治を見なければならない。
それが中野が説く「天下一人を以て興る」に繋がっていく事になるのである。
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