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2006年5月26日 (金)

武士道のこと

「・・・・・一木一草焦土ト化セン、糧食六月一杯を支フルノミナリト謂フ、沖縄県民を斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ・・・」

これは言うまでもなく、太平洋戦争唯一の地上戦となった沖縄戦に於いて、時の沖縄方面根拠地隊司令官・太田実中将(死後)が、昭和20年6月6日夜、大本営海軍次官宛てに打電した最後の電文の結びである。接する度に胸が熱くなる。

「沖縄県民ノ実情ニ関シテハ、県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既にニ通信力ナク・・・」に始まるこの電文はその時点での戦の実情、特に民間の老若男女の協力の様と筆舌し難い苦戦をつぶさに述べると共に、軍はそれをかえりみる余裕がなかった事を詫びている。その後、彼は6月13日海軍壕内で自決したのだった。沖縄の悲劇を語る時「ひめゆり部隊」や「鉄血勤王隊」の行動と共に常に引用される一文である。

あの極限状況に在って避ける事が出来ない死を前にして太田実中将はよくぞ責任感と人間性を失わず、県民に対し愛情と思いやり、そして謝罪の心を保ち得たものだ。通常であれば自分が生き延びる事で精一杯であろう。今日、平和のなかで生活している我々には想像を絶するものがある。常に死と隣接する戦場にあっては心理的にも極限の状況である、生に固執する人間の本性丸出しの醜い面をさらけ出すものではないだろうか。

沖縄戦のみならず、今次大戦の多くの戦場での数々の醜い事例が語られている。その中にあって、太田実中将の姿はまさに武士道の極みと言えるものであろう。その魂は今日も胸を打つ。

太田実中将1891年(明治24年)千葉県生まれ、1913年(大正2年)海軍兵学校卒。海軍に於ける陸戦研究の第一人者「おれは公務に全力を尽くす、お前は子供の養育に責任を持て」(妻が病気で寝込んでも)「軍人が一度家を出たらお国のものだ。お前が死んでも、公務についている間は絶対に帰らん」と妻にいう典型的な「武人」だった。

そして60年後、その魂をしっかりと受け止め、沖縄県民の苦難に報いべく、2000年のサミット会場を沖縄に決定した小渕総理もまた、同じ魂をもった見事なサムライ振りであり、我々に感動を与えてくれた。戦で命を落とした沖縄県民に対し、これ以上の鎮魂譜はない。

小渕総理は学生時代に沖縄を訪れ、その悲劇に触れ太田中将のこの電文に接し、心に何かを刻んだと言われている。やがて日本国の総理として太田の魂に報いたのである。

まさに二つの武士の魂が時空を越えて結ばれたと言える。

今は亡き、小渕総理のあの村夫子然とした風貌を想起しつゝ、太田実中将、犠牲になった沖縄県民と英霊に対し、心より哀悼の意を表し、ご冥福を祈りたい。合掌

前章で柔道選手、卓球選手、力士、政治家のとっさの時の対応について私見を述べてみた。

スポーツの分野でも日常生活でも、とっさの時の反応は誠に難しい。私など、そのとっさの局面に際し、大慌てに慌て失敗し、後で「ああすれば良かった、こうすれば良かった」と反省ばかりである。後知恵である。「今度この局面に遭遇したら今度は失敗しないぞ」と構えても、次のとっさの局面は、全く別の状況になっており、また失敗する、その連続である。

しかし、だからこそ、とっさの局面で少しでも慌てたり失敗しない様に日々練習稽古に励むものである。私など臆病者の典型であるから人一倍稽古をした様な気がする。

一方、太田実中将の事を書き乍ら、極限の状況など決してあってもらいたくないと、つくづく思う。しかし、その様な局面にいつ遭遇するか判らない。常に心の鍛錬を要するのであろう。

最近、武士道というものが論ぜられる事が多い様である。私も良く判らない。ただ“とっさ”も “極限”も常に心身の鍛練を怠らなければ少しは対応出来るのであろうか。

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