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2006年5月26日 (金)

礼について

戦後、日本の驚異の復興を象徴的に世界に発信した、東京オリンピック。その成功ほど国民に自信を甦らせたものはなかろう。

その時の柔道種目、無差別級決勝はオランダの巨人、アントン・ヘーシングと日本の切り札・神永昭夫の対戦であった。結果は、ヘーシングの力の前に神永は袈裟固めで破れた。当時ヘーシングの強さは柔道界では既に脅威であったが、日本の“お家芸”柔道がまさか破れる事などなかろうというのが一般的であった。それ丈に日本人にとっては大きな衝撃であった。

一方、オランダ人はその勝利に喜びを爆発させた。ヘーシングの袈裟固め一本のベルが鳴るや、未だ神永は仰向けに畳の上に横たわり、上になっていたヘーシングは審判の“一本”の宣告を受けて力を緩め立ち上がろうとしていた時であったが、狂喜したオランダの応援団の一人が試合場に飛び上がり、ヘーシングに抱きつこうとした。その時である、ヘーシングは厳しい表情でその男を大きな手で制し、試合場から降りるよう命じた。

ヘーシングにとっては日本柔道を破った劇的な瞬間であった。その勝利感はひとしおであったはずである。しかし、そのとっさの折に、彼は数秒前まで死力を尽くし戦い、そして打破った相手神永の心情を思んばったのである。そして両者は元の位置に戻り、終わりの礼を交わし、互いの健闘を称え、静かに試合場を降りた。勝ったヘーシングも勝利をことさらに誇示する事もなく、破れた神永も卑屈な様子をみせる事なく淡々とした態度であった。

と書くと何でも無い事である。しかし、あのとっさの瞬間にヘーシングは自分の喜びの感情を抑え、また神永も平常心を保った姿は立派であった。

言う迄もなく、武道の試合は礼にはじまって礼に終わる。これが武道の作法である。それは互いに相手を敬う心にある。日本で培かわれた武士道が柔道という格闘技を通じて遠くオランダのヘーシングに伝わっていたのである。

いつの卓球大会であったか、“愛ちゃん”の愛称で人気が高い福原愛選手が激戦のすえ、勝利を納めた試合があった。その直後にインタビューを受けていた。女性アナウンサーが勝利の感想などを聞いていた時。ふっと口を噤みアナウンサーの問いかけに応えなくなった。ほんの数秒程度であった。怪訝に思ったアナウンサーが、「どうしたの」と尋ねると福原選手は「今、自分の背後をたった今戦った相手の選手が通った、勝った自分の勝利のインタビューの声を聞くのは辛い思いをするだろうから、暫く黙りました」と応えていた。

その時は福原選手はまだ中学生であったと思う。しかし、3・4才の頃から厳しい練習を重ね、何百回の試合経験を通じ、勝つ喜びと同時に、負けた時の悲哀を心の中で理解する様になったのであろう。そして、そのとっさの折に相手の立場、自分は勝つ事が出来たが、相手の選手の無念さは理解出来る。その相手の立場に対する思いやりを、その経験の中から学んだのである。

「思わず“ヤツタ”と手をたたきましたよ」、これは小坂文部科学大臣の発言である。トリノ五輪に於いて、我が荒川静香選手が、見事金メダルを獲得し、その報告を兼ね大臣室を表敬訪問した折に飛び出したものである。

多くの国民がテレビで観戦して記憶に新しいと思うが、女子フィギュア自由種目の荒川選手の演技はしなやかで、表現力にあふれ、素晴らしい出来栄えであり、門外漢の私からみても感動的であった。その次の演技者は金メダルの最有力候補のロシアのイリーナ・スルツカヤ選手であった。それ迄も世界選手権大会をはじめ多くの大舞台で優勝を経験している名選手である。しかし、直前に荒川選手にあれ程の完璧な演技を見せつけられると、そのプレッシャーは大変なものであったろう。果たせるかな緊張感から、その動きも表情も硬かった。そして何でもない局面で転倒したのであった。世界中が息を呑んだ瞬間である、この瞬間に荒川選手の金メダルが確定したと言っても過言ではない。

他人の失敗が自分に有利に作用するフィギュア競技など演技を争う競技は非情なものである。荒川選手へ声援を送っていた国民の心の底にも相手の失敗を期待する気持ちはなかったと言えば嘘になろう。大臣の発言も是を代弁したとも言える。正直といえば正直である。

しかし、選手の心情を思えば、その発言は如何なものかと思う。さすがに大臣もその後、直ちに「不適切な発言であった」と訂正した。礼を失した発言と思ったのであろう。立派である。

イリーナ・スルツカヤ選手はすぐ立ち直り、みじんも動揺を表に出す事なく見事に演技を終えた。観客も万雷の拍手で応えた。これまた見事である。

平成13年大相撲夏場所は相撲フアンにとって忘れ得ない場所であろう。ホームページで拾ってみた。

千秋楽、東横綱の貴乃花が優勝決定戦で西横綱の武蔵丸を上手投げで降し、二場所ぶり22回目の優勝を飾った。貴乃花は前日の大関の武双山戦で右膝を亜脱臼したが、出場を強行、本割りでは武蔵丸に突き落としで敗れ、13勝2敗で並んだものの決定戦を気迫あふれる取り口で制した。

前日の武双山との取組で敗れた貴乃花は自力で歩けない程に右膝を痛めてしまっていた。診断結果は全治2ヶ月の亜脱臼。親方は休場を勧めたが「出場して膝が駄目になってもいい」とフアンの為、そして横綱の誇りの為、決死の出場を決意した貴乃花だった。武蔵丸を破った瞬間の表情はまさに鬼の顔だった。しかし、終わりの礼を交わした時は、両者とも淡々として土俵を下りた。互いの健闘を称え礼にかなった作法であつた。観衆もテレビの前のフアンも感動した。

そして表彰式、小泉総理は貴乃花に内閣総理大臣杯を授与した。

首相は表彰状を読みあげた後「痛みに耐えてよく頑張った。おめでとう」と貴乃花を絶賛した。国民もその率直さに拍手を送った。

大相撲の土俵は神殿である。従って力士は礼を以て始め、塩をまき柏手を打つ。そして死力を尽くして戦い、戦い終われば淡々と礼を以て終わる。勝っても負けても互いに“淡々さ”を以て健闘を称え、尊重し、敬意を表するのである。力士以外でも神殿に上がる者はその礼を守るべきものだ。これが日本の伝統である。

今日、その礼儀作法に乱れが生じていると思うのは私ばかりではなかろう。この一番も手負いの貴乃花と戦わねばならなかった武蔵丸の心情はまさに泣きたい気持ちであり、その闘争心は複雑なものがあったろう。その武蔵丸の心中を思いやれば総理もまた異なった対処の方法もあったはずである。

勝者を讃えるのは誰しも出来る。しかし、このとっさの折に敗者を思いやる心がそれ以上に必要ではなかろうか。ささいな事と言われゝばそれ迄であるが、それが武士道が求める礼の心であろう。

日頃より浅学非才で非礼な行動が多い私であるが、自戒を込め、色々な文献(ホームページ他)をひもとき乍ら“礼”について弱冠述べてみる。

“礼”という言葉は今日では礼儀作法を指す事が一般的であるが、古代中国では人間が持つ徳目のひとつとして極めて重用視している。その意味するところは日常生活に於ける礼儀作法といった枝葉末節のことも含まれるが、より広く人間の社会的な行動が定着し、型を作って様式化し、それが「しきたり」、「習俗」として守られるもの全般を指す。広く人の世の秩序を保たせるもの全てを礼と総称したのである。最も広い意味では、社会の伝承のすべて、文化全体を指す事もある。

中華と夷狄の区別が礼の有無によって決定されるのもこの為と言われている。

論語によると孔子は、儀礼を行うにあたって、形式や外見よりも心がこもっている事が大切だと述べている。

礼が正しく行われるには、何よりもまず心中に愛情とか敬意とかがあって、それが形となって表現されるのだと考えていたようである。

只、孔子は決して表現される形を疎かにしてもよいと考えていたわけではない。

礼は心の中の思いが適切に形になって表現されるものであり、心の伴わない外形だけの虚礼には意味がないと言っているのである。

しかし、心のこもっていない形式だけの礼であっても、これを短絡的に廃止してしまうのではなく、礼の形だけでも継承させ、それに託されている礼の心が再び理解されるのを待つべきであるとしている。形が残っていることも、礼の心を知る為に重要なのである。心の在り方だけを問題にして無礼作法を許容するものであってはならない。文質彬彬という言葉が示すように、心と形の適度な調和こそ重用なのである。

孔子はこの礼を以て社会の秩序の安定をはかったのである。敢えて法に頼らず、礼によって政治行う、これが孔子の理想としてところである。

法治国家として成熟しつゝある我が国である。法によって社会秩序が維持されなければならないのは当然である。しかし、それで十分であろうが、やはりそこには礼というものが基盤になってはじめて目指す道義国家につながっていくのではなかろうか。

「法に抵触しなければいゝではないか」。ホリエモン問題などみてみると、この様な論理がまかり通っている。今一度、礼について考察するのも無駄ではないのではなかろうか。

規制社会が良いのか、規制が緩和された自由な競争社会が良いのか、今日よく論ぜられる。自由な競争が健全に行われる社会が良いに決まっている。その健全性を保つ為の最低の法規制は当然必要である。

法治国家に於いては当然である。しかし、だからといって礼の精神が基盤になければ意味がない。

競争社会は強者の論理であり勝者のみが勝ち残り、それが正義とみなされる。法規も強い者の為に、強い者が民主主義の原則に則り多数決で決めていく。結局、民主主義やセーフティネットを意味する法規を装った強者の論理に追随を余儀なくされる。やはり“礼”なくして自由社会は成り立たない。その為にも礼の心を養うべく常日頃の鍛錬が肝要である。

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