福岡市の中心部にある大濠公園は春は櫻、夏は花火大会と人出で賑わう。東京上野の不忍池に模した池の周囲は約2000メーター、絶好のジョギングコースである。
その入口に古いが、どっしりとした建物がある。簡易郵便局庁舎である。これは常に“野”にある事をモットーとした中野にとって唯一の官職とも言える。浜口内閣の逓信政務次官時代「いずれ九州の中心は福岡となるであろう」と熊本逓信局の支庁を誘致したものである。中野の先見性の一端を垣間みる事が出来る。
余談ではあるが、この建物は終戦直後、暫く米軍に接収され、野戦病院として活用されていた。あの朝鮮戦争の時、多くの米軍傷兵が担ぎ込まれる様子を、私は子供の頃、近くに住んでいたので、子供心にも鮮明に記憶している。それなりに歴史を刻んだ建物である。しかし、これらの事を知る人は殆ど居ない。
昭和18年(1943年)10月27日に中野が壮絶な最期を遂げて早や、60余年、我が国社会も大きく変化し、そのなかで、郷里福岡に於いてさえ、彼の行動や思想も日々風化しつゝある。その名前すら知らぬ若者が増えている。
戦後、何とかその精神を後世に伝えたいと、直接中野の薫陶を受けた人々、特に“猶興居”の門下生達が中心となって資金を募り、彼の生家に近い鳥飼神社(福岡市中央区地行)境内に昭和30年に顕彰碑を、そして昭和59年に銅像を建立した。
この境内には中野が中学修猷館の生徒の頃、仲間と協力して建設した柔道々場“振武館”があるが、今日もなお青少年の自治で運営されている。私の柔道もこの道場から出発した。
そして余談であるが、大相撲九州場所の際は、毎年九重部屋の宿舎となっている。
親方はあの横綱・千代の富士(現、九重親方)であり、猶興居生の進藤一馬の甥の進藤龍生(故人)の娘が親方夫人である。
当時、中野家には常に5~6人の学生や若者が書生として起居を共にし、これを“猶興居”と称していた。
これは孟子尽心章の“豪傑の士は文王無しといえども猶興る”から引用したものである。意味する処は「中国の名君である文王は常に優秀な人材を集め育成した。しかし、真に強く優れた者(豪傑)は例え文王の様な奇特な人物が居なくても自ら育ち興って来るのである」。
門閥も財もない質屋の倅から筆一本、弁舌ひとつで国会議員となった、中野の気概を象徴的に表し、“豪傑”中野の面目躍如たるものがある。その“猶興居”から幾多の人材が世に出ている。
進藤一馬(衆議院議員・福岡市長)、長谷川峻(衆議院議員・労相・文相)、妹尾憲介(福岡市議会議長)、永田正義(熊本 人吉市長)等である。
私の父、英彦之助(中学修猷館・早稲田大学卒業後に渡満)も同時代にそのなかの一人であった。父は一介の市井人として終わったが、
私に正剛の剛に因んで剛太郎という名を残してくれたが、大いに名前負けしており内心忸怩たる思いである。
この稿を書くに当たり久しぶりに中野の四男・泰雄氏にお会いした(都下・福生市在住)。本年84才、奥様と二人で静かに余生を送っておられるが、すこぶるお元気であった。その際に「君のお父さんには自分が小さい頃病気になった折に背負われて病院に担いで行ってもらったよ」と、しばし父の思いで話をして頂いた。
その様な関わりで現在私は先達の後を継いで“中野正剛顕彰会”の代表世話人を引き受け、毎年命日にささやかではあるが、慰霊祭を欠かさず行っている。
勿論、私は直接、中野正剛の機微に接した事はない。しかし、子供の頃より多くの猶興居の出身者や、関係のあった人々から中野正剛の人となりを聞くとはなしに耳にしていた。一度その人柄について聞いた事があるが、異口同音に「自分らには優しかった」という言葉が返って来た。
永田正義(東方会の青年隊長、後人吉市長)は、昭和16年2月中野に付き添って広島に遊説に行った折、宿泊先の旅館で右翼の刺客に中野と間違われ襲われ刃物で切られ、重傷を負った事があったが、病院に駆けつけた中野は「すまん、すまん」とポタポタと涙し、彼の枕元に付き切りであったという。その話をした時の永田は当時を思い起こしたのか目にはうっすらと光るものが見えた。その師を偲ぶ表情が印象に残っている。それ程、門下生の心には強く残っている「優しさ」とは何であろうか。人間中野の一面を忍ばせられる。
あの政治行動の激しさ、言われている性格からは全く意外な門下生の中野感である。
“男は強くなければ生きていけない、しかし、優しくなけれが生きる価値がない”。
一方、その政治活動は変転めまぐるしい。生い立ちからその軌跡をたどってみる。
明治19年(1886年)2月12日、父・中野泰次郎、母・トラの長男として福岡市に生まれる。中学修猷館、早稲田大学、東京朝日新聞社入社、その後自ら東方時論社を設立、社長兼主筆、大正6年(1917年)衆議院選挙立候補落選、大正9年(1920年)衆議院選挙再挑戦、当選以後連続8回当選。
大正12年(1922年)革新クラブ結成、続いて憲政会、立憲民政党と渡り歩いている。
昭和6年(1931年)満州事変の頃より民政党を離れ、国民同盟を結成、更に、昭和11年(1936年)東方会を結成、自ら総裁となる。
昭和12年末から翌13年にかけてイタリア・ドイツ両国を訪問、ムッソリー二、ヒトラーと会見している。
この頃はファシズムに傾倒している。恐らくあのナチスの整然とした統治と軍事力に眩惑されたのであろう。
当時の中野の8ミリフイルムをみると、その服装(黒シャツ・黒ネクタイ)、その演説のスタイル、ポーズはヒトラーそのまゝである。かなりヒトラーとナチスの影響を受けている事が窺える。
また、南進論を主張、日独伊三国同盟を支持、更に後に脱会するが、当初は、大政翼賛会総務に就任している。
しかし、東條首相が独裁色を強め、戦争の劣勢化に伴い、その政策と人間性の違いに気がついたのか対立的関係となり、ついには完全に決裂、互いに不倶載天の敵同士となる。やがて東條の権力と憲兵隊を駆使する厳しい弾圧のなかで自ら命を絶つに致る(57才)。
昭和18年10月25日に憲兵による取り調べを受け、26日午後2時釈放、自宅に戻っている。その夜の12時に割腹する迄の10時間の中野の行動は四男泰雄氏の著書「政治家中野正剛」によると、
憲兵の監視付きのまゝ自宅で風呂に入り、白髪を染め、家族や親族らごく近しい者と夕食、老母トラに声をかける。泰雄の部屋をのぞき「今、何ば読みよるとや」と問うた後、甥の巌(森口)に書斎にあるヒトラーとムッソリーニの額を外させている。
暫く書き物をすると言って一階に下りる。そして襖を閉め、26日12時(断12時)作法通り短刀で腹を薄く横一文字に切り、返す刀で頸動脈を突き刺している。机の上には“楠木正成像”と“大西郷伝”が置かれていた。
恐らく中野自身がヒトラーに傾倒し、日本国がここに致った事に対する彼なりの国民に対する謝罪の想いと責任の取り方でもあったかもしれない。
翌朝お手伝いの女性が事切れた中野を発見、二階にいた泰雄は気がつかなかった。その時、着ていた血染めの着物と下着は玄洋社記念館(福岡市中央区舞鶴)に他の遺品と共に保管されている。
尚、中野の葬儀は10月31日に青山斎場にて執り行われたが、葬儀委員長は盟友の緒方竹虎であった。緒方は言っている「死して中野は東條に勝った」と。
簡単に彼の政治行動の軌跡を追っただけでも、その行動の振幅は誠に激しく、大きく揺れている。しかし、憂国の至情と反権力、そして「天下一人を以て興る」という気概は自ら命を絶つまで貫かれている。
その生き様、死に様は壮絶の一語につき、およそ我々凡人には及びもつかない。その精神性の高さに圧倒される思いだ。
とかく目先の利害損得で移ろい易い今日の政界をみる時、我々に何かを問いかけている気がする。
日下藤吾(元青山学院大学教授)が、その著書「獅子の道中野正剛」で中野の気持ちを代弁して述べている一筆を紹介する。「独裁者・東條英機の前に、国民は柔順なる羊となり、唖者の様に沈黙した。臨時軍事費をあてがわれて骨の軟らかくなった代議士連中は、専制君主たる東條の前に行儀よく整列させられて、国民服をまとって右向け右、廻れ右の号令で軍隊さながらの分列行進させられてしまった。彼らはあたかも一身上の安全と引き替えに人間としての全ての自由と尊厳と権利とを自発的に放棄したものの様にみえた」。
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