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2006年5月26日 (金)

武士道のこと

「・・・・・一木一草焦土ト化セン、糧食六月一杯を支フルノミナリト謂フ、沖縄県民を斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ・・・」

これは言うまでもなく、太平洋戦争唯一の地上戦となった沖縄戦に於いて、時の沖縄方面根拠地隊司令官・太田実中将(死後)が、昭和20年6月6日夜、大本営海軍次官宛てに打電した最後の電文の結びである。接する度に胸が熱くなる。

「沖縄県民ノ実情ニ関シテハ、県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既にニ通信力ナク・・・」に始まるこの電文はその時点での戦の実情、特に民間の老若男女の協力の様と筆舌し難い苦戦をつぶさに述べると共に、軍はそれをかえりみる余裕がなかった事を詫びている。その後、彼は6月13日海軍壕内で自決したのだった。沖縄の悲劇を語る時「ひめゆり部隊」や「鉄血勤王隊」の行動と共に常に引用される一文である。

あの極限状況に在って避ける事が出来ない死を前にして太田実中将はよくぞ責任感と人間性を失わず、県民に対し愛情と思いやり、そして謝罪の心を保ち得たものだ。通常であれば自分が生き延びる事で精一杯であろう。今日、平和のなかで生活している我々には想像を絶するものがある。常に死と隣接する戦場にあっては心理的にも極限の状況である、生に固執する人間の本性丸出しの醜い面をさらけ出すものではないだろうか。

沖縄戦のみならず、今次大戦の多くの戦場での数々の醜い事例が語られている。その中にあって、太田実中将の姿はまさに武士道の極みと言えるものであろう。その魂は今日も胸を打つ。

太田実中将1891年(明治24年)千葉県生まれ、1913年(大正2年)海軍兵学校卒。海軍に於ける陸戦研究の第一人者「おれは公務に全力を尽くす、お前は子供の養育に責任を持て」(妻が病気で寝込んでも)「軍人が一度家を出たらお国のものだ。お前が死んでも、公務についている間は絶対に帰らん」と妻にいう典型的な「武人」だった。

そして60年後、その魂をしっかりと受け止め、沖縄県民の苦難に報いべく、2000年のサミット会場を沖縄に決定した小渕総理もまた、同じ魂をもった見事なサムライ振りであり、我々に感動を与えてくれた。戦で命を落とした沖縄県民に対し、これ以上の鎮魂譜はない。

小渕総理は学生時代に沖縄を訪れ、その悲劇に触れ太田中将のこの電文に接し、心に何かを刻んだと言われている。やがて日本国の総理として太田の魂に報いたのである。

まさに二つの武士の魂が時空を越えて結ばれたと言える。

今は亡き、小渕総理のあの村夫子然とした風貌を想起しつゝ、太田実中将、犠牲になった沖縄県民と英霊に対し、心より哀悼の意を表し、ご冥福を祈りたい。合掌

前章で柔道選手、卓球選手、力士、政治家のとっさの時の対応について私見を述べてみた。

スポーツの分野でも日常生活でも、とっさの時の反応は誠に難しい。私など、そのとっさの局面に際し、大慌てに慌て失敗し、後で「ああすれば良かった、こうすれば良かった」と反省ばかりである。後知恵である。「今度この局面に遭遇したら今度は失敗しないぞ」と構えても、次のとっさの局面は、全く別の状況になっており、また失敗する、その連続である。

しかし、だからこそ、とっさの局面で少しでも慌てたり失敗しない様に日々練習稽古に励むものである。私など臆病者の典型であるから人一倍稽古をした様な気がする。

一方、太田実中将の事を書き乍ら、極限の状況など決してあってもらいたくないと、つくづく思う。しかし、その様な局面にいつ遭遇するか判らない。常に心の鍛錬を要するのであろう。

最近、武士道というものが論ぜられる事が多い様である。私も良く判らない。ただ“とっさ”も “極限”も常に心身の鍛練を怠らなければ少しは対応出来るのであろうか。

礼について

戦後、日本の驚異の復興を象徴的に世界に発信した、東京オリンピック。その成功ほど国民に自信を甦らせたものはなかろう。

その時の柔道種目、無差別級決勝はオランダの巨人、アントン・ヘーシングと日本の切り札・神永昭夫の対戦であった。結果は、ヘーシングの力の前に神永は袈裟固めで破れた。当時ヘーシングの強さは柔道界では既に脅威であったが、日本の“お家芸”柔道がまさか破れる事などなかろうというのが一般的であった。それ丈に日本人にとっては大きな衝撃であった。

一方、オランダ人はその勝利に喜びを爆発させた。ヘーシングの袈裟固め一本のベルが鳴るや、未だ神永は仰向けに畳の上に横たわり、上になっていたヘーシングは審判の“一本”の宣告を受けて力を緩め立ち上がろうとしていた時であったが、狂喜したオランダの応援団の一人が試合場に飛び上がり、ヘーシングに抱きつこうとした。その時である、ヘーシングは厳しい表情でその男を大きな手で制し、試合場から降りるよう命じた。

ヘーシングにとっては日本柔道を破った劇的な瞬間であった。その勝利感はひとしおであったはずである。しかし、そのとっさの折に、彼は数秒前まで死力を尽くし戦い、そして打破った相手神永の心情を思んばったのである。そして両者は元の位置に戻り、終わりの礼を交わし、互いの健闘を称え、静かに試合場を降りた。勝ったヘーシングも勝利をことさらに誇示する事もなく、破れた神永も卑屈な様子をみせる事なく淡々とした態度であった。

と書くと何でも無い事である。しかし、あのとっさの瞬間にヘーシングは自分の喜びの感情を抑え、また神永も平常心を保った姿は立派であった。

言う迄もなく、武道の試合は礼にはじまって礼に終わる。これが武道の作法である。それは互いに相手を敬う心にある。日本で培かわれた武士道が柔道という格闘技を通じて遠くオランダのヘーシングに伝わっていたのである。

いつの卓球大会であったか、“愛ちゃん”の愛称で人気が高い福原愛選手が激戦のすえ、勝利を納めた試合があった。その直後にインタビューを受けていた。女性アナウンサーが勝利の感想などを聞いていた時。ふっと口を噤みアナウンサーの問いかけに応えなくなった。ほんの数秒程度であった。怪訝に思ったアナウンサーが、「どうしたの」と尋ねると福原選手は「今、自分の背後をたった今戦った相手の選手が通った、勝った自分の勝利のインタビューの声を聞くのは辛い思いをするだろうから、暫く黙りました」と応えていた。

その時は福原選手はまだ中学生であったと思う。しかし、3・4才の頃から厳しい練習を重ね、何百回の試合経験を通じ、勝つ喜びと同時に、負けた時の悲哀を心の中で理解する様になったのであろう。そして、そのとっさの折に相手の立場、自分は勝つ事が出来たが、相手の選手の無念さは理解出来る。その相手の立場に対する思いやりを、その経験の中から学んだのである。

「思わず“ヤツタ”と手をたたきましたよ」、これは小坂文部科学大臣の発言である。トリノ五輪に於いて、我が荒川静香選手が、見事金メダルを獲得し、その報告を兼ね大臣室を表敬訪問した折に飛び出したものである。

多くの国民がテレビで観戦して記憶に新しいと思うが、女子フィギュア自由種目の荒川選手の演技はしなやかで、表現力にあふれ、素晴らしい出来栄えであり、門外漢の私からみても感動的であった。その次の演技者は金メダルの最有力候補のロシアのイリーナ・スルツカヤ選手であった。それ迄も世界選手権大会をはじめ多くの大舞台で優勝を経験している名選手である。しかし、直前に荒川選手にあれ程の完璧な演技を見せつけられると、そのプレッシャーは大変なものであったろう。果たせるかな緊張感から、その動きも表情も硬かった。そして何でもない局面で転倒したのであった。世界中が息を呑んだ瞬間である、この瞬間に荒川選手の金メダルが確定したと言っても過言ではない。

他人の失敗が自分に有利に作用するフィギュア競技など演技を争う競技は非情なものである。荒川選手へ声援を送っていた国民の心の底にも相手の失敗を期待する気持ちはなかったと言えば嘘になろう。大臣の発言も是を代弁したとも言える。正直といえば正直である。

しかし、選手の心情を思えば、その発言は如何なものかと思う。さすがに大臣もその後、直ちに「不適切な発言であった」と訂正した。礼を失した発言と思ったのであろう。立派である。

イリーナ・スルツカヤ選手はすぐ立ち直り、みじんも動揺を表に出す事なく見事に演技を終えた。観客も万雷の拍手で応えた。これまた見事である。

平成13年大相撲夏場所は相撲フアンにとって忘れ得ない場所であろう。ホームページで拾ってみた。

千秋楽、東横綱の貴乃花が優勝決定戦で西横綱の武蔵丸を上手投げで降し、二場所ぶり22回目の優勝を飾った。貴乃花は前日の大関の武双山戦で右膝を亜脱臼したが、出場を強行、本割りでは武蔵丸に突き落としで敗れ、13勝2敗で並んだものの決定戦を気迫あふれる取り口で制した。

前日の武双山との取組で敗れた貴乃花は自力で歩けない程に右膝を痛めてしまっていた。診断結果は全治2ヶ月の亜脱臼。親方は休場を勧めたが「出場して膝が駄目になってもいい」とフアンの為、そして横綱の誇りの為、決死の出場を決意した貴乃花だった。武蔵丸を破った瞬間の表情はまさに鬼の顔だった。しかし、終わりの礼を交わした時は、両者とも淡々として土俵を下りた。互いの健闘を称え礼にかなった作法であつた。観衆もテレビの前のフアンも感動した。

そして表彰式、小泉総理は貴乃花に内閣総理大臣杯を授与した。

首相は表彰状を読みあげた後「痛みに耐えてよく頑張った。おめでとう」と貴乃花を絶賛した。国民もその率直さに拍手を送った。

大相撲の土俵は神殿である。従って力士は礼を以て始め、塩をまき柏手を打つ。そして死力を尽くして戦い、戦い終われば淡々と礼を以て終わる。勝っても負けても互いに“淡々さ”を以て健闘を称え、尊重し、敬意を表するのである。力士以外でも神殿に上がる者はその礼を守るべきものだ。これが日本の伝統である。

今日、その礼儀作法に乱れが生じていると思うのは私ばかりではなかろう。この一番も手負いの貴乃花と戦わねばならなかった武蔵丸の心情はまさに泣きたい気持ちであり、その闘争心は複雑なものがあったろう。その武蔵丸の心中を思いやれば総理もまた異なった対処の方法もあったはずである。

勝者を讃えるのは誰しも出来る。しかし、このとっさの折に敗者を思いやる心がそれ以上に必要ではなかろうか。ささいな事と言われゝばそれ迄であるが、それが武士道が求める礼の心であろう。

日頃より浅学非才で非礼な行動が多い私であるが、自戒を込め、色々な文献(ホームページ他)をひもとき乍ら“礼”について弱冠述べてみる。

“礼”という言葉は今日では礼儀作法を指す事が一般的であるが、古代中国では人間が持つ徳目のひとつとして極めて重用視している。その意味するところは日常生活に於ける礼儀作法といった枝葉末節のことも含まれるが、より広く人間の社会的な行動が定着し、型を作って様式化し、それが「しきたり」、「習俗」として守られるもの全般を指す。広く人の世の秩序を保たせるもの全てを礼と総称したのである。最も広い意味では、社会の伝承のすべて、文化全体を指す事もある。

中華と夷狄の区別が礼の有無によって決定されるのもこの為と言われている。

論語によると孔子は、儀礼を行うにあたって、形式や外見よりも心がこもっている事が大切だと述べている。

礼が正しく行われるには、何よりもまず心中に愛情とか敬意とかがあって、それが形となって表現されるのだと考えていたようである。

只、孔子は決して表現される形を疎かにしてもよいと考えていたわけではない。

礼は心の中の思いが適切に形になって表現されるものであり、心の伴わない外形だけの虚礼には意味がないと言っているのである。

しかし、心のこもっていない形式だけの礼であっても、これを短絡的に廃止してしまうのではなく、礼の形だけでも継承させ、それに託されている礼の心が再び理解されるのを待つべきであるとしている。形が残っていることも、礼の心を知る為に重要なのである。心の在り方だけを問題にして無礼作法を許容するものであってはならない。文質彬彬という言葉が示すように、心と形の適度な調和こそ重用なのである。

孔子はこの礼を以て社会の秩序の安定をはかったのである。敢えて法に頼らず、礼によって政治行う、これが孔子の理想としてところである。

法治国家として成熟しつゝある我が国である。法によって社会秩序が維持されなければならないのは当然である。しかし、それで十分であろうが、やはりそこには礼というものが基盤になってはじめて目指す道義国家につながっていくのではなかろうか。

「法に抵触しなければいゝではないか」。ホリエモン問題などみてみると、この様な論理がまかり通っている。今一度、礼について考察するのも無駄ではないのではなかろうか。

規制社会が良いのか、規制が緩和された自由な競争社会が良いのか、今日よく論ぜられる。自由な競争が健全に行われる社会が良いに決まっている。その健全性を保つ為の最低の法規制は当然必要である。

法治国家に於いては当然である。しかし、だからといって礼の精神が基盤になければ意味がない。

競争社会は強者の論理であり勝者のみが勝ち残り、それが正義とみなされる。法規も強い者の為に、強い者が民主主義の原則に則り多数決で決めていく。結局、民主主義やセーフティネットを意味する法規を装った強者の論理に追随を余儀なくされる。やはり“礼”なくして自由社会は成り立たない。その為にも礼の心を養うべく常日頃の鍛錬が肝要である。

憲法

昭和22年5月3日、日本国憲法が公布された。ちなみに、その丁度1年前のこの日に極東国際軍事裁判所が開廷されている。終戦直後のこの時期の激動の様を物語っている。

以来60年、一言半句の改正をも見る事なく生きて来たこの憲法も時代の推移のなかで、その存在が大きく変わろうとしている。国民大方の意志は新たな憲法の制定へ一歩踏み出したと言える。衆参両院に調査会が設置されたのも、その表れである。

憲法とは何か、この根本的な問いをめぐり、政界をはじめ各界で何度も議論されてきた。

言うまでもないが、憲法は「国の姿を表わし、国の基本をなすものである。同時に公権力の行使者の言動に制限をかけるもの(樋口陽一教授)」だ。即ち、権力を持たない個人の領域に、公権力が安易に手を突っ込んではならないという事だ。一方、国防とか環境を考える時、国民が多少の自己抑制のもとに、何を成すべきかを公権力が国民に求めるルールを定める側面を持つものでもあろう。

今後、国民が英知を絞り、総意を以て、自らの手で新しい憲法を創り出さねばならない。

しかし、多様な価値観が共存する現代社会である。要は、公権力の行使者も、国民も共に良識をもって、手作りした憲法を常に謙虚な気持ちで尊重する精神を持たねば意味がない。

昨年の第163回通常国会に於ける郵政民営化法案については、衆議院で5票差という僅差であったが可決され、参議院に送付された。参議院では15票差で否決された次第である。

現在、新たな憲法制定の論議のなかで効率性の観点から一院制論もある。しかし、現憲法に於いては厳然と2院制を規定している。それは衆・参二院制の下、予算、首班指名、条約については衆議院優位を認めるものの、多様性のなかで政策を絞り込む過程に於ける慎重性と、参議院に対し衆議院の行き過ぎを抑制し、足らざるを補う。即ち、抑制・補完の役割を良識の府として期待している処にある。従って、参議院が時には衆議院と異なる意志が示されたとしても何ら憲法とその精神に抵触するものではない。

勿論、院を構成する各政党がその政党の論理に基づいて所属する議員の行動に枠をはめる事は一向に構わない。

ただ、先の通常国会で前代未聞なのは小泉総理は否決した参議院でなく、可決した衆議院を解散し総選挙に打って出た事である。即ち、総理の大権である国会(衆議院)の解散権をここで行使した事である。僅差とは言え、衆議院は法案を可決した。これは内閣信任を意味する。しかし、参議院の否決を内閣不信任であるとの解釈で、信任した衆議院を解散したのである。これはあまりにも一方的で論理的に飛躍しすぎて私には違和感を禁じ得ない。

言うまでもなく現憲法下に於いて、参議院には解散はない。いかに総理と言えども参議院に対し、解散権を行使する事は出来ない。一方、参議院は内閣に対し不信任を突きつける事は出来ない事となっている。

国会の解散については憲法に次の如く規定されている。

第7条(天皇の国事行為)

 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、下の国事にかんする行為を行ふ。

1,        憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。

2,        国会を召集すること。

3,        衆議院を解散すること。

4,        国会議員の総選挙の施行公示すること。

5,        国務大臣及び法律の定めるその他の官史の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。

6,        大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。

7,        栄典を授与すること。

8,        批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。

9,        外国の大使及び公使を接受すること。

10,  儀式を行ふこと。

第69条(衆議院の内閣不信任)

 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

現憲法制定以来19回の衆議院解散がなされているが、そのうち15回が7条解散、即ち、内閣の助言と承認に基づく天皇の国事行為に依る解散であり、他は全て69条解散である。

従って、今回の解散も7条による解散であり、何ら憲法上問題はない。

しかし、先述した如く憲法は公権力の行使者の言動に制限をかけるものである。その行使には慎重の上にも慎重であるべきである。

今回の郵政民営化法案の参議院否決に於いても

    両院協議会を設ける。

    衆議院に法案を戻し再審議し、3分の2以上で可決する。

    一時廃案にして修正し、次期通常国会か臨時国会を開催するなどして、新たに審議をするなど、手順が解散の大権を行使する前に当然考えられたはずである。

    ②はあの時点では現実的でなかったが③は充分選択肢のひとつであった。ましてや憲法の条文に照らして決して、違憲ではないにしろ、その精神に鑑みると如何なものかと思われる状態下では尚一層、解散権の行使には慎重であるべきではなかったか。

過去19回の7条解散も夫々に理由がある。また、それについて意見もある。しかし、憲法が厳然と規定している二院制のもと、参議院に於いて示された意志が気の食わないといった理由で解散に持ち込んだ例を私は知らない。

立憲主義国家日本の基本法である“憲法”の精神に鑑みて、いさゝかなりとも“如何なものか”と思われる助言と承認をもって天皇に国事行為をお執り頂く事はまさに“如何なものか”と思われる。

我が国は国民の総意に基づく天皇を象徴として戴いている。皇室に対する尊崇と敬愛が多様な価値観を超越して国家の結束を形成しているが、あくまで象徴があることは言をまたない。

当然、天皇は現実政治に対し影響を及ぼしたり、意見を言われる事はない。

それであるからこそ、権力を預かり行使する者は常に謙虚にしてそれを越える事がない様、努めるべきである。特に国事行為をお執り戴くに際し、助言と承認をなす内閣は違憲でなければ如何なる助言でも構わぬといった不尊な心があってはならない。そうでなければ、その長はまさに恐れを知らぬ「天下人」という事になってしまう。

今日、ホリエモンのケースをみるまでもなく違法でなければ何をしても良い、むしろ法の隙間やギリギリのところを上手に泳ぐ者が評価される傾向が見受けられる。しかし、それが良いのであろうか。就中、権力を行使する立場の者が法律の限度一杯に権力を行使するのではなく、謙虚に礼節をもって法の枠内で、むしろ抑制的に権力を行使する事が望まれる。

国民は権力に対し敏感である。時には我尽にもまた卑屈をも装う事がある。それ故に、今日圧倒的多数で公権力を行使する立場に在る我々自由民主党は一層の自覚と謙虚さを矜持すべきであろう。さもなくば、いずれ手痛いシッペ返しを受ける事にもなるであろう。

以上、私見を述べたが、国政上の重要な問題である憲法上の総理の解散権に係わる問題である。大いに議論されてしかる可と思う。しかし、不思議な事に、その当時マスコミも殆ど関心を示さなかった。

私自身もマスコミのインタビューに対し何度か私見を述べたが、全く関心を示さなかった。不思議である。

自由民主党立党50年

昭和30年、私は福岡県立修猷館高等学校の生徒だった。その年の5月母校の創立80周年記念式典が行われたが、その式典に先輩である緒方竹虎が来校し、我々後輩に訓辞を述べた。話の内容は覚えていないが、その悠揚迫らぬ東洋的大人の風格に接し、仰ぎ見るが如き感銘を受けたのが思い出せれる。その時の感激が後に私を政治の世界に導いたのかもしれない。

その時、緒方竹虎は自由党総裁であった。そして政界は保守陣営も自由党と民主党が併存する状況にあった。その前年、昭和29年11月、5次7年余に及び多くの足跡を残した吉田内閣も本人のワンマン的性格が飽みが生じさせたのか党の内外で急速に求心力を失い総裁の座を緒方に譲り直後に内閣総辞職に追い込まれ政権は憲政の常道にのっとり、第2党の鳩山一郎へと移譲されていた(第1次鳩山内閣)。そして明けた昭和30年2月、鳩山総理は衆議院の解散、総選挙を断行したのである。結果は民主党が第1党に躍進、第2次鳩山内閣がスタートしたのであった。

一方、革新側は社会党も左派・右派に分かれていたが、時代的背景もあり加速度的に力を貯えつゝあり、更に左右社会党統一の気運が高まって来ていた。

危機感を持った緒方は、いたずらに保守が分裂したまゝで足の引っ張り合いをしている時ではない「保守合同は爛頭の急務である」と、保守合同を呼びかけ精力的に活動を開始したのであった。

そして、同年11月、自由党と民主党の保守合同が達成され自由民主党が誕生したのであった。その直前左右社会党も統一され日本社会党が結成されていた。

自由民主党は初代総裁に鳩山一郎を選出し、鳩山を首班とする自由民主党内閣をスタートさせたのであった。時に、昭和30年即ち1955年であり、ここにいわゆる55年体制が始まったのである。以降、自由民主党最後の単独内閣ある宮澤内閣までの40年間、日本の政治は自由主義を標榜する与党自由民主党と社会主義社会の実現を目指す日本社会党の2大与野党が相対峠しながら、又、時には話し合い乍ら運営されたのである。

保守合同の偉業を成し遂げた緒方は、その翌年(昭和31年)1月急逝した。鳩山の後を緒方政権必至とみられていただけに郷土福岡の者にとっては残念至極であった。

振り返ってみると緒方が来校したその時期は、保守合同の直前で最も忙しい時期であったはずであるが、忙中に母校を訪れ後輩に接し、束の間の青春を楽しんだと思う。

この間の保守合同へ向けての党史をひもとくとドラマティックで興味深い。吉田茂の強烈な個性、鳩山一郎の執念、緒方と共に動いた自由党幹事長の大野半睦の腹芸、民主党総務会長の三木武吉の機略等と、戦後復興の為の政治の安定を求めた政治家の群像が躍動感をもって伝わって来る。

奇しくもと言おうか、当然と言うか、彼等は夫々が戦前の東條英機の覇道的翼賛政治体制を批判し立ち向かった面々である。

自由主義者として東條に忌避された吉田茂、中野正剛と共に反抗した鳩山、三木、中野との盟友関係を隠さず睨まれた緒方等である。

支那事変、泥沼の日中戦争、三国同盟、満州国建設、国連脱退、そして太平洋戦争突入と歴史は流れ、最終的には300万同胞の命が失われ悲惨な敗戦と連なった。彼等とてその渦中に在って、その流れに竿差し、せき止める事が出来なかった。それに対する悔恨の情と自戒の念は大きかったと思う。それ丈に立党に当たり期する処は大であったと思われる。

小異を捨てゝ大同につく、緒方が述べた如く、保守合同は爛頭のまさに急務であった。

その大義は我が国の復興と真の民主政治の確立であった。

立党時の宣言を読み返してみても内外の不安定な情勢を背景に祖国再建の大業に邁進せんとする。みずみずしい感覚と気迫が伝わって来る。

以来今日迄、我が党は常に政権の中枢にあって我が国政治を担当させて頂いている。勿論その間多くの過誤があった事は否定しない。しかし、その都度、先達は自由闊達に議論を交わし総意で難局を乗り越えて来た。また、野党やマスコミの厳しい批判の目を厭わぬ度量と礼を失わなかった。それが政党として国民の信頼を得る事が出来たものと思う。

そして立党50年、平成18年1月18日の恒例の年次大会、フィナーレは出席者全員が蛍光ペンを振りかざし、司会者の音頭で小泉総理に向けて“小泉!!”、“小泉!!”と叫ぶ演出であぅた。中央には大満悦の小泉総理の姿があぅた。多くの党員が酔った如くであった。いや忘我の境であった。しかし何かしら戦慄を覚えたのは私一人ではなかったのでないか。

あのナチス・ドイツの時代、洗脳された国民が独特の片手をあげる敬礼と共に「ハイル・ヒトラー」と夢中で叫び続けたあの姿と重なって仕方がなかった。――― 後に悲惨な運命が待っているとも知らずに ―――。

内外ともに課題はなお山積みしている。この時代、我が自由民主党は変革に柔軟に即応し素晴らしい歴史と伝統を守り、真の保守政党として健全な民主政治の確立の為その役割を果たさねばならない

中野正剛・廣田弘毅そして緒方竹虎 

太平洋戦争を狭む約20年間は激動の昭和史の中にあってひときわ国民にとって苦難の時期であった。

その渦中にあって大きな役割を演じた廣田弘毅、中野正剛、緒方竹虎は共に福岡の中学修猷館の出身である。その生き様は、お世辞にも処世術に長けていたとは言えず、またその死にざまは息が詰まる様な悲劇性を帯びている。しかし、その一生を貫いた精神性の高さは現代の我々を圧倒してやまない。

この3人は既に歴史上の人物として、後の史家や、識者が縷々述べているが、ここでは私が偶然にももった接点を切り口に述べてみる。

まず、中野については、私の父が中野の門下生であった事から、私自身が父やその仲間の人達を通じて間接的ではあるが中野の人となりに触れる事が出来た。その内容については“中野正剛余録”の章で既に述べた通りである。

廣田については、進藤一馬・福岡市長(当時)の音頭で、その精神を後世に残そうではないかと、昭和57年銅像を建立した。その際、実行委員会事務局の一員として実務に当たったのが接点である。

愈々、像が完成し除幕式と祝賀会の当日多くの人々が参列した。

私も司会役を務めさせて頂いた。

遺族を代表して長男・弘雄氏が出席された。参列者の多くは廣田について多くの逸話なり、その精神などについての話が聞けるであろうと期待していた。

しかし、弘雄氏は壇上で先ず唇に人指し指を一本立て、「本日はこれを以て御挨拶としたい」と深々と頭を下げられた。他に何らの言葉もなくそれが全てであった。一瞬会場はシーンと静まり返り、そして静かに拍手が湧き起こった。私には今もその時の事が強烈な印象として残っている。まさに黙して語らずであった。

東京軍事裁判に於いて自分の父親は一言の弁明も、一言の意見の陳述もせず、文民唯一のA級戦犯として従容として断頭台に昇った。その息子として今更何をか言わん。まさに廣田弘毅の強烈な意志を子息を通じて感じさせられた思いであった。

廣田は自身の思いについて殆どを語っていない。従って、今日ではもはや廣田の思いは推測するしかない。

廣田弘毅(1878年生)現在の福岡市中央区天神にて石屋の息子として生まれる。中学修猷館、第一高等学校、東京帝国大学、外務省入省、外務官僚として活躍、その間、斉藤及び、岡田内閣で外務大臣、昭和11年3月大命降下、総理大臣として軍部の干渉を受け乍らも組閣、しかし軍部大臣現役制を排除する事が出来ず、軍事拡張予算を成立させるなど、軍部の意見を広範に受け入れる事になり、更に11月に日独防共協定締結とズルズルと我が国は戦時体制へと押し流されていったのである。一時期、国政の枢要な立場に立った廣田としては深い悔恨の念に苛まれた事であろう。

東京裁判を待つ迄もなく、既にこの時点で廣田は天皇と国民に対し、自らを断罪していたのである。もう何も言う事はない。彼にとっては東京裁判などどうでもよい。廣田の心は既に人間が営む俗世を離れ天空に遊んでいたのであろう。それは座右の銘としていた「浩々たる丹心万古に輝く」の心境であったのである。

緒方竹虎と中野正剛の盟友関係はつとに有名である。中学時代に出会い終生の友であった。まさに刎頸の友である。

中野の葬儀では葬儀委員長も務め、福岡市にある中野の碑の「中野正剛先生の碑」の文字は緒方の筆によるものである。

緒方竹虎(1888年、山形県に生まれ)、4才の時父について福岡に移る。中学修猷館、早稲田大学、大学時代は中野と下宿を同じくしている。その後、朝日新聞社に入社、言論人としての道を歩む。しかし、昭和19年、東條内閣に変わり成立した小磯国昭内閣に於いて国務大臣兼情報局総裁として入閣し重慶政府との和平工作に打ち込んでいる。しかし失敗、小磯内閣は総辞職した。そして敗戦を迎えている。

戦後は戦争終結の感慨に耽る間もなく、東久邇宮内閣の国務大臣兼内閣書記官長兼情報局総裁に就任、わずか1ヶ月半であったが、敗戦処理の大役を担った。そして、その年の暮GHQから戦犯容疑者に指名されている。

緒方については「立党50年」の章でも触れているが、昭和30年5月、母校修猷館高校の創立記念に卒業者として来校し、後輩の我々に訓辞を行っている。私はその風格に接し大きな感銘を受けた次第である。その年の11月に保守合同、自由民主党設立の大業を成し遂げ、つぎは緒方内閣必至と言われていたが翌昭和31年1月急逝した。

緒方は戦後、自ら語っている「新体制運動に対し、日支事変に対し、三国同盟に対し、大東亜戦争に対し、朝日新聞にもし幾分かの弁疏が残されているとすれば、それは一番遅れて賛成したと言う以外の何物でもない」と、今日の言論人に是非とも心に受け止めてもらいたい言葉である。

この3人にひとつの共通点がある。それは筑前・玄洋社との係わりである。廣田弘毅夫人は玄洋社々員・月成功太郎の娘である。また廣田は社員であると共に、玄洋社々長・頭山満との交流は特に深かったのはよく知られている。

中野正剛は大正2年三宅雪嶺の娘・多美子と結婚しているが、頭山満が古島一雄と共に媒酌の労をとっている。

また緒方竹虎については、彼の急逝後の福岡一区の衆議院議席は最後の玄洋社々長の進藤一馬(後に福岡市長)が受けついでいる。

玄洋社については、いずれ詳しく述べたいが、大アジア主義を標榜し、孫文の革命運動に共鳴すると共にインドのラス・ビハリ・ボース、フイリッピンのアギナルド将軍等の独立運動を陰に陽に支援している。廣田は揮毫を頼まれると好んで「靖亜」という言葉を書している。意味するところは“アジアを靖んず”即ちアジアの平和と安定の重要さを訴えるものである。

更に、3人の思いとは大きく異なり我が国は戦争に突入、そして敗戦、戦後の混乱と国民は未曾有の苦難を強いられたが力及ばずしてここに至らしめた事に対し、そろって深い反省と悔恨の情を愚直なまでに心中に蔵している。

この時期に指導的立場にあった人の多くが悔恨の情を以て、その後の人生を送っている。しかし、一方で何の反省も躊躇もなく、利を求めて要領よく180度人生を変えた人も多い。人それぞれである。

宰相、東條英機について

太平洋戦争開戦時(昭和16年12月8日)の首相であり、戦争を遂行した責任者として東京裁判に於いて戦犯として絞首刑に処せられた事は誰しも知る処である。東京裁判については60年以上経った今でも様々な検証が行はれている。

東條については個人としても、公人としても多角的な考察が行われ、それに関する記録や文献も数多い。それらを総合的にまとめてみると。個人的には誠に皇室尊崇の念厚く、また、生真面目で几帳面、良き家庭人であった様である。

軍隊時代は軍紀・風紀に厳しく強姦・略奪など行った。兵士に対しては容赦なく軍法会議にかけ処分したという。司令官として軍規を保ち志気を維持する事は当然の事であろうが、その軍人としての能力の高さは評価されている。

経歴が示す如く、15才で陸軍幼年学校に入学、陸軍士官学校、陸軍大学と常に抜群の成績で進み、49才で陸軍中将に就いている。

軍事官僚としては目を見張るものがあり、もし軍人としてその生涯を全うしておれば間違いなく名将として名を残したであろうと評する人が多い。ただ精神主義的な側面を多分に持ち合わせていた様だ。

しかし、政治家としてはその評価は低い。まず言われているのが度量の小さゝ、官僚的な硬直した発想、視野の狭さ、権威主義などである。また個人的に好き嫌いが激しく、反対意見を言う者や嫌いな者に対しては異常なまで憎しみの情を隠さず地位(権力)を利用しての嫌がらせを度々行っている。

毎日新聞社編「決定版・昭和史・破局への道」、「毎日新聞百年史」、(フリー百科事典「ウイキペディア」)によると、1944年2月23日の朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ」と評判的な記事をかい新名丈文記者を37才という高齢で二等兵召集し、硫黄島へ送ろうとした。新名記者が海軍省記者クラブの主任記者であった事から海軍が抗議し、新名は難を免れた。

また、戦後に東海大学総長として同大学を私学の雄に育てあげ、更に多方面に業績を残した松前重義は、当時逓信省工務局長であったが、反東條の東久邇宮や中野正剛と近いという事で42才にして、やはり二等兵召集され南方戦線で労役に就かされている。

また、陸軍内で東條嫌いで有名であった前田利為(1911年・陸大卒)は東條によって南方の激戦地に転任させられ搭乗機を撃墜され死亡したが、東條はわざわざこれを戦死ではなく戦病死扱いにして遺族の年金を減額したと言われている。

東條と犬猿の仲であった。陸軍の奇才・石原完爾も昭和16年早々に予備役に編入されている。

中野正剛については前に述べた如く、その死因は謎とされているが、この様な事例からすると、子息を最前線に送るぞ、などの脅迫があったという事は容易に想像出来る。また、中野を取り調べ、容疑不十分で釈放した中村登音担当検事には43才にして報復としての召集令状が届いている。

一方、擦り寄って来る者に対しては大いに可愛がり、重用した感がある。私情を仕事に持ち込む事が多かったと言われている。

当時から東條側近の“三奸四愚”と呼ばれた取り巻きの存在は有名である。即ち、三奸は鈴木貞一(陸大29期・貴族院議員・中将)、加藤泊治郎(陸士22期・中将)、四方諒二(陸士29期・東京憲兵隊長・中将)、そして四愚は木村兵太郎(陸士20期・中将)、佐藤賢了(陸士29期・陸大37期・中将)、真田穣一郎(陸士31期・陸大39期・少将)、赤松貞雄(陸士34期・陸大46期・東條首相秘書官)であると言われている。その他、戦史上最大の失敗と言われているインパール作戦を直訴した牟田口兼也、東條が陸軍大臣時代に仏印進駐の責任で一度は左遷したが半年後に人事局長に引き上げ、更に陸軍次官を兼務させるなど重用した富永恭次(陸士25期・中将)がいる。富永などはフイリッピンで特攻指令を出し、「俺も必ず後から行く」と訓示し乍らも「胃潰瘍」の診断書をもって護衛戦闘機付きで台湾に脱出している。(百科事典「ウイキペディア」)

これらの部下を東條は処分しなかった。そろいもそろってお粗末な連中ばかりである。

首相であり、陸軍大臣であり、参謀総長であり、まさに強大な権力を持った国の最高責任者がこの様な資質であった事は国民にとって悲劇であった。これでは国を担い戦争という大事業が遂行できる訳がない。

同じ現象は“今日政治”でも茶飯事である。三奸四愚どころか多くの奸や愚が居やしないか。「胃潰瘍」の診断書ではないが敵前逃亡とも思える行為も見受けられる。皆様の独断で名前を挙げてみるのも退屈しのぎではないでしょうか。笑々、

結果的には同胞300万の命を無惨にも失った、この大戦はそれまでの経緯のなかで東條が首相に就任した時は既に戦争は避けられない状況であったかもしれない。

しかし、政治の最高責任者として和平の道もあったのではないか、また参謀総長として無謀にして愚かな作戦を裁可し兵士を無駄に死なせた例も多くある。戦勝国による東京裁判をまつ迄もなく日本国民による歴史の審判にさらされる時、その責任の一端を免れる事は出来ないであろう。

今日、靖国神社に他の英霊と共に合祀されているが本人はいささか居心地が悪いのではなかろうか。

中野正剛余録

福岡市の中心部にある大濠公園は春は櫻、夏は花火大会と人出で賑わう。東京上野の不忍池に模した池の周囲は約2000メーター、絶好のジョギングコースである。

その入口に古いが、どっしりとした建物がある。簡易郵便局庁舎である。これは常に“野”にある事をモットーとした中野にとって唯一の官職とも言える。浜口内閣の逓信政務次官時代「いずれ九州の中心は福岡となるであろう」と熊本逓信局の支庁を誘致したものである。中野の先見性の一端を垣間みる事が出来る。

余談ではあるが、この建物は終戦直後、暫く米軍に接収され、野戦病院として活用されていた。あの朝鮮戦争の時、多くの米軍傷兵が担ぎ込まれる様子を、私は子供の頃、近くに住んでいたので、子供心にも鮮明に記憶している。それなりに歴史を刻んだ建物である。しかし、これらの事を知る人は殆ど居ない。

昭和18年(1943年)10月27日に中野が壮絶な最期を遂げて早や、60余年、我が国社会も大きく変化し、そのなかで、郷里福岡に於いてさえ、彼の行動や思想も日々風化しつゝある。その名前すら知らぬ若者が増えている。

戦後、何とかその精神を後世に伝えたいと、直接中野の薫陶を受けた人々、特に“猶興居”の門下生達が中心となって資金を募り、彼の生家に近い鳥飼神社(福岡市中央区地行)境内に昭和30年に顕彰碑を、そして昭和59年に銅像を建立した。

この境内には中野が中学修猷館の生徒の頃、仲間と協力して建設した柔道々場“振武館”があるが、今日もなお青少年の自治で運営されている。私の柔道もこの道場から出発した。

そして余談であるが、大相撲九州場所の際は、毎年九重部屋の宿舎となっている。

親方はあの横綱・千代の富士(現、九重親方)であり、猶興居生の進藤一馬の甥の進藤龍生(故人)の娘が親方夫人である。

当時、中野家には常に5~6人の学生や若者が書生として起居を共にし、これを“猶興居”と称していた。

これは孟子尽心章の“豪傑の士は文王無しといえども猶興る”から引用したものである。意味する処は「中国の名君である文王は常に優秀な人材を集め育成した。しかし、真に強く優れた者(豪傑)は例え文王の様な奇特な人物が居なくても自ら育ち興って来るのである」。

門閥も財もない質屋の倅から筆一本、弁舌ひとつで国会議員となった、中野の気概を象徴的に表し、“豪傑”中野の面目躍如たるものがある。その“猶興居”から幾多の人材が世に出ている。

進藤一馬(衆議院議員・福岡市長)、長谷川峻(衆議院議員・労相・文相)、妹尾憲介(福岡市議会議長)、永田正義(熊本 人吉市長)等である。

私の父、英彦之助(中学修猷館・早稲田大学卒業後に渡満)も同時代にそのなかの一人であった。父は一介の市井人として終わったが、

私に正剛の剛に因んで剛太郎という名を残してくれたが、大いに名前負けしており内心忸怩たる思いである。

この稿を書くに当たり久しぶりに中野の四男・泰雄氏にお会いした(都下・福生市在住)。本年84才、奥様と二人で静かに余生を送っておられるが、すこぶるお元気であった。その際に「君のお父さんには自分が小さい頃病気になった折に背負われて病院に担いで行ってもらったよ」と、しばし父の思いで話をして頂いた。

その様な関わりで現在私は先達の後を継いで“中野正剛顕彰会”の代表世話人を引き受け、毎年命日にささやかではあるが、慰霊祭を欠かさず行っている。

勿論、私は直接、中野正剛の機微に接した事はない。しかし、子供の頃より多くの猶興居の出身者や、関係のあった人々から中野正剛の人となりを聞くとはなしに耳にしていた。一度その人柄について聞いた事があるが、異口同音に「自分らには優しかった」という言葉が返って来た。

永田正義(東方会の青年隊長、後人吉市長)は、昭和16年2月中野に付き添って広島に遊説に行った折、宿泊先の旅館で右翼の刺客に中野と間違われ襲われ刃物で切られ、重傷を負った事があったが、病院に駆けつけた中野は「すまん、すまん」とポタポタと涙し、彼の枕元に付き切りであったという。その話をした時の永田は当時を思い起こしたのか目にはうっすらと光るものが見えた。その師を偲ぶ表情が印象に残っている。それ程、門下生の心には強く残っている「優しさ」とは何であろうか。人間中野の一面を忍ばせられる。

あの政治行動の激しさ、言われている性格からは全く意外な門下生の中野感である。

“男は強くなければ生きていけない、しかし、優しくなけれが生きる価値がない”。

一方、その政治活動は変転めまぐるしい。生い立ちからその軌跡をたどってみる。

明治19年(1886年)2月12日、父・中野泰次郎、母・トラの長男として福岡市に生まれる。中学修猷館、早稲田大学、東京朝日新聞社入社、その後自ら東方時論社を設立、社長兼主筆、大正6年(1917年)衆議院選挙立候補落選、大正9年(1920年)衆議院選挙再挑戦、当選以後連続8回当選。

大正12年(1922年)革新クラブ結成、続いて憲政会、立憲民政党と渡り歩いている。

昭和6年(1931年)満州事変の頃より民政党を離れ、国民同盟を結成、更に、昭和11年(1936年)東方会を結成、自ら総裁となる。

昭和12年末から翌13年にかけてイタリア・ドイツ両国を訪問、ムッソリー二、ヒトラーと会見している。

この頃はファシズムに傾倒している。恐らくあのナチスの整然とした統治と軍事力に眩惑されたのであろう。

当時の中野の8ミリフイルムをみると、その服装(黒シャツ・黒ネクタイ)、その演説のスタイル、ポーズはヒトラーそのまゝである。かなりヒトラーとナチスの影響を受けている事が窺える。

また、南進論を主張、日独伊三国同盟を支持、更に後に脱会するが、当初は、大政翼賛会総務に就任している。

しかし、東條首相が独裁色を強め、戦争の劣勢化に伴い、その政策と人間性の違いに気がついたのか対立的関係となり、ついには完全に決裂、互いに不倶載天の敵同士となる。やがて東條の権力と憲兵隊を駆使する厳しい弾圧のなかで自ら命を絶つに致る(57才)。

昭和18年10月25日に憲兵による取り調べを受け、26日午後2時釈放、自宅に戻っている。その夜の12時に割腹する迄の10時間の中野の行動は四男泰雄氏の著書「政治家中野正剛」によると、

憲兵の監視付きのまゝ自宅で風呂に入り、白髪を染め、家族や親族らごく近しい者と夕食、老母トラに声をかける。泰雄の部屋をのぞき「今、何ば読みよるとや」と問うた後、甥の巌(森口)に書斎にあるヒトラーとムッソリーニの額を外させている。

暫く書き物をすると言って一階に下りる。そして襖を閉め、26日12時(断12時)作法通り短刀で腹を薄く横一文字に切り、返す刀で頸動脈を突き刺している。机の上には“楠木正成像”と“大西郷伝”が置かれていた。

恐らく中野自身がヒトラーに傾倒し、日本国がここに致った事に対する彼なりの国民に対する謝罪の想いと責任の取り方でもあったかもしれない。

翌朝お手伝いの女性が事切れた中野を発見、二階にいた泰雄は気がつかなかった。その時、着ていた血染めの着物と下着は玄洋社記念館(福岡市中央区舞鶴)に他の遺品と共に保管されている。

尚、中野の葬儀は10月31日に青山斎場にて執り行われたが、葬儀委員長は盟友の緒方竹虎であった。緒方は言っている「死して中野は東條に勝った」と。

簡単に彼の政治行動の軌跡を追っただけでも、その行動の振幅は誠に激しく、大きく揺れている。しかし、憂国の至情と反権力、そして「天下一人を以て興る」という気概は自ら命を絶つまで貫かれている。

その生き様、死に様は壮絶の一語につき、およそ我々凡人には及びもつかない。その精神性の高さに圧倒される思いだ。

とかく目先の利害損得で移ろい易い今日の政界をみる時、我々に何かを問いかけている気がする。

日下藤吾(元青山学院大学教授)が、その著書「獅子の道中野正剛」で中野の気持ちを代弁して述べている一筆を紹介する。「独裁者・東條英機の前に、国民は柔順なる羊となり、唖者の様に沈黙した。臨時軍事費をあてがわれて骨の軟らかくなった代議士連中は、専制君主たる東條の前に行儀よく整列させられて、国民服をまとって右向け右、廻れ右の号令で軍隊さながらの分列行進させられてしまった。彼らはあたかも一身上の安全と引き替えに人間としての全ての自由と尊厳と権利とを自発的に放棄したものの様にみえた」。

天下一人を以て興る

“天下一人を以て興る”

何と気概に満ちた言葉であろうか。このところ不思議とこの言葉が“胸”を去来する。

筑前福岡が生んだ憂国の政治家・中野正剛は昭和17年(1942年)11月10日、彼の母校である早稲田大学大隈講堂に於いて4時間強にわたり、「天下一人を以て興る」という演題で時の宰相東條英機を弾劾する大演説を行っている。

その様子を当時早稲田の学生として聴衆の一人であった中野の四男・泰雄氏(東京都福生市在住)はその著書「政治家中野正剛」で詳しく述べている。

それは古今東西の歴史や人物に中野自身の歴史観をもって照射し乍ら、国家の危機を説き、国民に覚醒を促す誠に感動あふれるものであったと。その間満場の聴衆は誰一人として席を立つ者はいなかった、そして演説する中野の精神の昂揚と聴衆の心が一体となった時そこには嵐の如き拍手が湧き起こり鳴り止まなかった。そして最後の締めくくりは校歌「都の西北」の大合唱であったと。

今日、その演説内容を読み返してみても、その迫力そして情熱とあふれる至誠が何とも言えぬ臨場感をもって迫って来る、まさに魂の叫びである。

その日、中野は説いている。そして訴えている。「諸君は由緒あり、歴史ある早稲田大学の学生である。便乗はよしなさい。歴史の動向と取り組みなさい。諸君はみな一人を以て興ろうではないか,便乗主義は危険である。自己に目醒めよ。“天下一人を以て興る、興らざるは努力せざるにある”」と。更に続けている「天下ことごとく眠っているなら、諸君、起きようではないか。誰かが真剣に起ち上がれば、天下はその人に率いられる。諸君みな起てば、諸君は日本の正気を分担するものである。日本の巨船は怒涛の中に漂っている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目醒めよ。天下一人を以て興れ」。

時は太平洋戦争の真只中。前年(1941年)12月8日、真珠湾攻撃によって火ぶたが切られたこの大戦は、緒戦の圧倒的優勢も束の間、この年(1942年)6月のミッドウエー海戦に於いて我が連合艦隊は空母4隻を失い更に多数の駆逐艦が沈没或いは損傷するという大打撃を受けた。これをさかいに続くソロモン海戦、ガダルカナル島攻防そして撤退と早くも形勢は逆転し劣勢に立たされていた。

中野の目には既に戦局の行く末、国家の行く末が見えていたのであろう。このままではいけない何とかこの時点で和平にもっていかねばならぬと痛感した彼は、党人派の政治家・三木武吉や鳩山一郎等と語り合って重臣工作に奔走し、早期講和内閣樹立の道を模索していたのだった。しかし国民の間には戦争末期の様な厭戦ムードの広がりは未だなかった。それとこの時期は、かゝる戦況の悪化については国民には全く知らされておらず、国民は只管に為政者を信じ、マスコミもその役割を放棄して無批判に政府の方針に追随していたのだった。むしろ率先して国民を戦争継続へと煽りたてゝいたのである。

前年の昭和16年10月大命降下を受け、首相の座に着いた東條は陸相、参謀総長も兼務し、さらに翼賛体制を強化、経済や言論の統制等、愈々独裁色を強め、戦争遂行の為の諸施策を連続して打ち出していた。

この流れを変える事が急務である。それには国民一人一人が覚醒し、現状を認識し、一人一人が立ちあがらねばならない。中野はその願いを込めて、先ずは母校の後輩にその先鞭を託すべく、この演説を行ったのである。

明けて翌昭和18年(1943年)中野は元旦の朝日新聞朝刊に「戦時宰相論」と題する論文を掲載している。これが神経質な東條の逆鱗に触れた。東條内閣批判、倒閣運動と解訳したのである。

ここに到ると東條にとって中野は許すべからざる天敵であり、中野にとって東條は国民を悲惨な運命に導く天敵となったのである。ここに二人は互いに歩み寄る事の出来ない関係となったのであった。

そして、ついに東條は強行策に出た。“戦時刑事特別法”(施行・昭和17年(1942年)3月21日)の適用である。これは戦時下の特例法として刑法に定められた罪の一定部分について、その刑を加重するとともに、「国政を変乱することを目的とした殺人、その予備、陰謀、教唆、煽動等の行為、生活必需品の買い占め、売り惜しみ行為等を、死刑等の厳罰に処する」ものである。

この法律を適用し、東條は中野をはじめ彼が主宰していた政治グループ“東方会”の有力議員(非翼賛)及び幹部百数十名を警視庁に検挙させた。中野の逮捕理由はある若者に「日本は負ける」と話したという噂があるという事であった。

その年の10月26日からはじまる帝国議会に何が何でも中野を登院させてはならないとの思いである。

この経緯については保阪正康著「東條英機と天皇の時代(下)」を引用する。いさゝか長いが是非目を通して頂きたい。

(引用)

『いまや東條には、中野は目障りだった。このまま野放しにすれば議会で何を言いだすかわからないと恐れた。26日からの第83帝国議